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多様性を考える言論誌[集英社クォータリー]kotoba(コトバ)
 
自民改憲がめざす「国のかたち」の真実[対談]樋口陽一(東京大学・東北大学名誉教授)×小林 節(慶應義塾大学名誉教授)

法治国家か、専制国家か。その岐路に立つ日本

小林 七月の参議院選挙が近づいています。衆参同日選挙の可能性も十分あります。
 今回の選挙で自民党が圧勝し、改憲勢力が両院で三分の二を占めれば、確実に次の政治課題は「憲法改正」に絞られてくるでしょう。
 さて、ここにいる私は、「改憲派」と呼ばれてきた憲法学者です。一方、樋口先生は「護憲派」として日本の憲法学界を牽引してきた。
「改憲派」と「護憲派」─。意見の異なる憲法学者二人が手を組んで、なぜ一冊の本(『「憲法改正」の真実』集英社新書)を世に送り出したのか。しかも、なぜこのきわめて重要な選挙の直前に、なのか。
 それは、自民党が推進する改憲の危うさを有権者に伝えるためです。今回の選挙が、今までの国政選挙とは次元の異なるレベルで、日本の「国のかたち」を決める重要な意味をもつ、ということでもあります。
 この対談では、そのことの意味を、あらためて樋口先生とお話ししていきたいと思っています。
樋口 ご指摘どおり、七月の選挙の最大の争点は、改憲問題です。ところが、自民党は、選挙の争点が改憲問題である、ということにスポットライトが当たることを極力、避けようとしています。
小林 後で詳しく話をしようと思う緊急事態条項についての国会での論戦がまさにその典型ですね。自民党改憲案にある新設の「緊急事態条項」について野党が具体的な質問を浴びせようとしたときの安倍首相の反応はこうでした。
「憲法改正の発議は国会の権限ですから、それは国会の憲法審査会でご議論ください」。
 自民党内で最も改憲に固執している首相本人が、自分の口では議論したくないと言っている。
樋口 「改憲が必要だ」と主張する場合でも「国民みんなで、理想の憲法について論じよう」などというそぶりを見せる。しかし、そこには、大きな噓があります。自民党はすでに日本国憲法をすべて書き換える改憲草案を二〇一二年に発表しており、その草案を丁寧に説明する「Q&A」まで作成している。
 国民的な改憲論議をじっくり時間をかけて積み重ねようなどという気は、毛頭ない。国民全体が願う「理想の憲法」を探るつもりはないのです。憲法をかえて「日本をこんな国にしたい」という彼らの腹はとっくに決まっている。
 それも、これまでの自民党の改憲案がともかくも日本国憲法の骨組みは引き継ぐという姿勢だったのとは対照的に、「戦後」を全否定しようとする、その一環としての改憲案なのです。現憲法を「みっともない憲法」という首相の言い方がその基本姿勢を端的に表現しています。
小林 本当は、自民党の憲法改正草案は、憲法とも言えない代物なんですよ。つまり、改憲草案といっても「壊憲」草案です。
 わかりやすく言ってしまえば、安倍首相とその取り巻きの改憲マニアたちは、日本を北朝鮮のような専制国家にしたいのですよ。今、私たちが直面している危機は、法治国家から、専制国家への退行です。
樋口 あるいはこう説明するとわかりやすい。ある法制史の専門家が、自民党改憲案を評して、「これは慶安の御触書に回帰するようなものだ」と学術シンポジウムで述べていました。お上が人民のすべきことを指図する慶安の御触書とかわらないという認識に私も同意します。
 実際、日本国民は「誇りと気概を持」ち、「和を尊び」「互いに助け合」い、「活力ある経済活動を通じて国を成長させる」(前文案)ことを求められ、現行十三条の「すべて国民は、個人として尊重される」の「個人」が「人」にかえられる一方で、家族は「社会の自然かつ基礎的な単位」として特に「互いに助け合わなければならない」(新二十四条)ことになります。
 現行九十九条が国民が国家に対し、憲法尊重擁護義務を課すという書き方になっているのに対して、新一〇二条案は逆に、国民に対して憲法を尊重せよと指示するのです。  明治憲法起草のキーマンで内閣法制局長官に任ぜられる井上毅が「立憲政体ノ主義ニ従ヘハ君主ハ臣民ノ良心ノ自由ニ干渉セズ」と述べていたのに比べてどんなに逆行していることか。
 自民党の改憲案をもし国民が支持したら、それは、この国が封建制の江戸時代に戻るようなものなのです。要するに、日本は、今、近代国家をやめるかどうかの岐路に立っているということです。

権力を縛る近代憲法を捨て先進国の資格を失う

小林 近代国家の重要な柱として、そもそも我々人間は不完全なものだ、という認識があります。不完全でしかないはずのある個人が、軍隊や警察を指揮・監督し、貨幣を発行し、税を徴収したり、高位高官を任命したりしたらどうなるか。そうした大権をもつことになった個人、つまり最高権力者は、ほうっておけば、その大権を乱用するに決まっている。
 だから、前もってみんなで相談した枠を権力者にはめるしかない。その枠が憲法ですよね。
 その枠があるからこそ、国民は、自由で平等で安心できる社会生活を営むことができる。そうした価値を大切にすること、つまり近代立憲主義を掲げることが先進国としての最低条件なのですが、『「憲法改正」の真実』で樋口先生と細かく分析したように、自民党改憲案は、先進国であることをやめようと言っているのにひとしい。
 その結果、日本の経済や国力はどうなるか。国民が安心して暮らす、安定した社会がなければ、経済力だって落ちるに決まっています。
樋口 おっしゃるとおり。権力を縛る枠組みである近代憲法を捨てさり、国民に義務を課し、その生き方に注文をつける体制を作る。それが自民党改憲案の狙いです。
 そのことをできるだけ国民に知らせずに、いや知られないうちに、衆参同日選挙にもち込みたいと自民党は考えてきたようです。
 国民に「真実」を知られないうちに、改憲にもち込もうというのは、政治の暴走、いや犯罪的な行為だと言っても過言ではないでしょう。
小林 そうした今の政治の状況を見ていて、私は率直に、政権交代が必要だと思います。政権交代、と言うと、どきりとするかもしれないけれど、我々が選挙で選んだ結果、政権が交代するというのは当たり前のことです。むしろ、主権者が時々政権を変えてみないと、権力というのはゆがむんですよね。
 典型的な例が、沖縄密約ですよ。証拠があるの、ないのと何十年ももめたけれども、民主党に政権交代したら、ないはずの資料が外務省から出てきたじゃないですか。権力者がかわると、大臣室の机からいろんなものが出てくるのです。
 ですから、国民を欺くようなことをしていると、すぐにバレるんだという緊張感をもたせなければならない。我々国民が主人であって、政治家というのは雇われマダムにすぎない。そういうことを、お互いに確認するべきです。そのためにも政権交代をしたらいい。
 特に、私たちが戦争法と呼ぶ、憲法違反の安保法が施行され、また、憲法とも呼べない改憲案で、専制政治に戻ろうとする政党が存在するこの今、選挙は非常に重要なのです。

緊急事態条項は立憲主義と対立する

小林 この四月には熊本・大分で震災がありました。東日本大震災の後もそうでしたが、震災対応に必要だから緊急事態条項を憲法に書き加えよ、という声があがっています。これが憲法改正の一番手とも言われている。
 しかし、こんな条項が憲法に書き加えられたら、内閣が「これは緊急事態だ」と言った瞬間に、首相は行政権を超えて立法権と財政権をもち、地方自治体首長に対する命令権をもって、我々国民はそれに従う義務が発生する。
 これは、すごいことですよね。あなたは王様ですか、神様ですか、何様なんですかという話です。
樋口 緊急事態条項は、近代国家にとって一番の基本の立憲主義と鋭く対立する側面のある、大きな危険を含む条項です。
 そのような危険な条項を震災の被害で苦しむ人を片目で見ながら、これを奇貨として、憲法に滑り込ませようとしている。これほど卑しい政治はないし、そういう政治家を我々が選び出してきたことを、我々自身が恥じなければなりません。
小林 政策論的に言えば、災害には、中央に権限を集中させる緊急事態条項では対応できないんですよ。地方に権限を委譲して、現場の判断で迅速に動けるようにしておくほうがいい。そして、そのための法整備である災害対策基本法がすでに存在しているのですから、問題があるなら、その法律を改正していけばいい。憲法は関係ないのです。
 百歩譲って、中央に権限を集中させたほうがいいような非常事態について考えてみましょう。国民の安全を守るのが国家の使命ですから、ある程度、国民の権利を侵害してでも、対策を打たなくてはならない。それはそうです。
 私自身もそれゆえに、緊急事態条項の憲法化をかつて支持していました。しかし、これを本来権力をしばるためにある憲法に書き込むことは、結局、権力にあらゆる権限を与えてしまうことになる。
 権力の横暴さについて、楽観的すぎたと今は反省しています。
樋口 だから、緊急事態に対応する法制では、裁判所による監視と抑制がワンセットになっていなくてはなりません。国民への権利侵害が、どのような必要性のもとに行われたのかを、チェックする仕組みがあるのが普通の立憲主義国家です。ところが、日本の場合、そうはいかない。
小林 私の学んだアメリカも、司法の力が強いのですが、日本の司法は行政にNOと言えない。
樋口 小林先生の専門の統治行為論にかかわる話ですね。
小林 統治の根本に触れる、あるいはきわめて政治性の高い行為については司法は判断しないということが、日本の判例になっています。この統治行為論による判例をひっくり返すというのは、これはこれで難儀なことです。
 ただ、有権者に言っておきたいのは、日本での統治行為論は、半分までしか理解されていない、ということです。三権分立という原則のもと、司法は確かに高度な政治行為については判断を控えることになっている。でも、その先があるのです。
 政治部門の判断について、最終的には主権者である国民が、それを許すか許さないか、選挙という裁きでけりをつけるものである。司法の判断がなくとも、国民の判断をあおぐ必要がある。国民が口出ししてはいけない権威などというものが、政権にあるわけがない。
 ここまでが本当の意味での統治行為論のはずですが、最近の自民党の議員たちは、「俺たち政治家が何をやってもかまわない」という理論にしてしまっている。
 たとえば、自民党の谷垣禎一幹事長は、安保法制の議論がされていた昨年の六月に、NHKの討論番組の中で、安全保障について「統治行為だ」と述べて、自分たちの勝手にやってよいのだ、と言わんばかりの発言をしました。
 そういう政治家を私たち主権者が、国のあるじとして、採点する。そうした姿勢を主権者は示さなくてはならないのです。
樋口 だからこそ、何度も繰り返しますが、選挙が大事なのです。

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樋口陽一(ひぐち よういち)

1934年、宮城県生まれ。東京大学・東北大学名誉教授。法学博士。パリ大学名誉博士。国際憲法学会名誉会長。日本学士院賞受賞。レジオンドヌール勲章受勲。主な近著に『近代国民国家の憲法構造』(東京大学出版会)など。

小林節(こばやし せつ)

1949年、東京都生まれ。慶應義塾大学名誉教授。弁護士。法学博士、モンゴル・オトゥゴンテンゲル大学名誉博士。元ハーバード大学ケネディ行政大学院フェロー。主な近著に『「憲法」改正と改悪』(時事通信出版局)など。

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