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多様性を考える言論誌[集英社クォータリー]kotoba(コトバ)
 
全体主義はよみがえるのか──「愛国と信仰の構造」から考える [対談]中島岳志(政治学者)×島薗 進(宗教学者)

全体主義はよみがえるのか?

中島 日本の宗教学界を牽引している島薗先生と対談を重ねて、『愛国と信仰の構造 全体主義はよみがえるのか』(集英社新書)という本がまとまりました。私は政治思想史を専攻としていますが、宗教史に関する先生の深い洞察に助けられて、これまでにまったくなかった内容の議論ができたと思っています。
島薗 「愛国と信仰の構造」は言い換えれば、宗教ナショナリズムの構造ということになります。明治維新から現在の日本が直面している立憲デモクラシーの危機までを、宗教ナショナリズムという観点から論じた本は、確かにほとんどないでしょうね。
 しかし、「愛国と信仰」あるいは「政治と宗教」との結びつきを考えなければ、近代日本の実像や日本人の精神性を捉えることはできません。
 明治維新からまもなく一五〇年になるという近代日本の大きな節目に、こうした対談ができたのは、私にとっても非常に大きな収穫でした。
中島 ここで対談の中で分析のツールとして使った時代の区分についてご紹介しておこうと思うのです(一二九ページ表)。近代日本の一五〇年は、明治維新から第二次世界大戦までの七五年と敗戦以降の七〇年あまりとにまず大きく分けて考えることができます。さらに、社会学者の大澤真幸さんがおよそ二五年という長さで日本の社会のパラダイムが変わってきたという非常に優れた分析をなさっていますが、この二五年ごとの時代区分三つを、戦前と戦後で並べてみると、何が見えてくるのか。実はそれぞれの時代区分ごとに、どこか似たところが浮かんでくるのです。
 一八六八年の明治改元から、一八九四年の日清戦争までが約二五年です。この第一期に欧米の仲間入りを果たそうとした。同じように、販戦の一九四五年からの二五年間では、戦後復興を目標にして、高度経済成長を達成した。戦前の第二期は日清・日露の戦争に勝ち、「アジアの一等国」としての地位を誇るようになる。戦後の第二期の日本は、まさに「ジャパン・アズ・ナンバーワン」の時代です。
 しかし、どちらの時代も五〇年目あたりを境に、つまり第三期に入ると、社会の基盤のもろさが表立って見えてくる。戦前の第三期には、血盟団事件、五・一五事件、二・二六事件など昭和維新テロの嵐に突入し、社会全体も全体主義に吞み込まれていった。
島薗 その戦前の全体主義や超国家主義を支えたものの一つが宗教であった、ということをこの本では分析しました。
 さて、中島さんのご説明どおり、明治維新から第二次世界大戦までのおよそ七五年間のプロセスと戦後日本の歩みが、奇妙なほどに酷似していることを指摘しました。となると、浮かんでくるのは、「あの全体主義はよみがえるのか」「国体論をはじめとする宗教ナショナリズムはよみがえるのか」という問いです。
 私自身は、全体主義がかなり深く進行していると感じています。自民党の改憲草案を見ると、「日本国民は、国旗及び国歌を尊重しなければならない」「家族は、互いに助け合わなければならない」という趣旨の、立憲主義の原則とは正反対に、国民の義務を定めた条文がいくつも入っています。これをよしとする風潮の延長には、天皇主権が入ってきてもまったく不思議ではない。
中島 改憲草案それ自体もいろいろと問題が多いと思いますし、集団的自衛権について閣議決定による解釈改憲を行い、さらに違憲と言われる安保法案が強行採決されました。これが問題なのは、「国民が国家のあり方を規定する」という構造を根本的に崩壊させてしまうからです。  解釈改憲は、憲法の条文に手を加えるまでもなく、内閣の中で自己完結的に実質的改憲を行うことを意味します。ですから解釈改憲がまかり通ると、立法府は関与できません。ところが国民主権と言う場合、その主権が大きく関与できるのは立法府だけです。その立法府を飛ばしたところで様々なことが決定されると、私たちの主権は決定に関与できない。その意味では、尋常ならざる状態だと思います。
島薗 解釈改憲以外にも、特定秘密保護法やマイナンバー制の導入など、ジョージ・オーウェルの『一九八四年』のような徹底した監視と管理の世界がつくられようとしている。
中島 私たちが政治的選択を誤れば、立憲主義も民主主義も根こそぎになり、戦前以上にひどい全体主義国家になってしまうのではないか。そのぐらいの危機感をもっています。特にアメリカが東アジアからの撤退戦略をとり、その不安に日本人が耐えられなくなったときに全体主義がこの国をふたたび覆うのではないかと危惧しています。

日本は東アジア的権威主義へと回帰している

中島 立憲主義と民主主義を自ら手放し、全体主義へとなだれ込んでいった戦前の歴史を、現在の日本が繰り返そうとしている。それを島薗先生は「東アジア的権威主義への回帰」として読み解いておられましたね。
島薗 ええ。駆け足で説明してみましょう。
 冷戦後の世界では、サミュエル・ハンチントンの言う「文明の衝突」に近い状況がつくられていきました。つまり、イデオロギーで東西が対立した時代が終わった後は、各文化圏がそれぞれの宗教的伝統に強く影響を受けた社会を構成するようになる傾向が見られる。これを日本に当てはめると、国家や集団の秩序を尊ぶ儒教文明や東アジア官僚国家の伝統に回帰していると捉えることができるわけです。
 現在の中国共産党も伝統から切れているように見えて、中華帝国的な権威主義はそのまま受け継いでいる。となると、現在の日本と中国は敵対しているようで、よく似た国家体制になっていると見ることができます。
中島 確かに安倍晋三政権は、中国共産党のようになりたがっているようにしか思えません。そして、東アジア的権威主義への回帰にも「愛国と信仰」が透けて見えます。たとえば近年では、日本会議のような神社本庁と深いかかわりをもつ団体が、政治的な存在感を強めています。宗教ナショナリズムという側面を濃厚にもっているわけです。

明治憲法の二重性

島薗 中島さんの問題意識を私も共有しています。だからこそ日本の立憲主義もまた、明治憲法までさかのぼって、宗教ナショナリズムという視点から考察する必要があるのです。
 明治に制定された大日本帝国憲法には、前文にあたる「上諭」というものがありますね。そこには、国家統治の大権は、「朕」つまり明治天皇である自分が神的起源をもつ万世一系の皇統を引き継ぎ、子孫に伝えていくものだ、と記されている。
 しかし同時に、天皇は憲法の規定に従って統治するという立憲主義の原則も明らかにされています。実際、大日本帝国憲法の条文そのものは、西欧の憲法の標準的な内容が組み込まれています。
 憲法学者の佐藤幸治氏は、こうした明治憲法の二重性について「神権的国体観念と立憲主義とを結びつけようとする複合的性格の強い憲法」だと指摘しています。だから、憲法の運用も立憲主義と国家神道のどちらに軸足をおくかで大きく変わってくる、と。
中島 戦前で言えば、一九三五年の天皇機関説事件が軸足の大きな転換点だったと思います。美濃部達吉らが唱えた天皇機関説は、一言で言えば天皇も立憲君主として憲法に縛られている、という考え方であり、政治の場でもスタンダードな説になっていた。
 ところが一九三五年に貴族院本会議で、菊池武夫が天皇機関説を糾弾すると、右翼と軍部が機関説撲滅運動を展開して、美濃部の本は発禁にされてしまった。ここで戦前の立憲主義は完全に廃棄されてしまったわけですね。
島薗 そうです。天皇機関説事件を転換点として、憲法はそれ自体の権威の源泉を失い、政体は神権的国体観念のほうに傾いてしまいました。つまり、西欧的な立憲主義は解体されて、東アジア的権威主義体制が前面に出てしまった。
 戦後も類似の変化が起こりつつあります。敗戦を契機にして、日本は立憲主義を再建してきたかのように見えました。しかし安保法案の強行採決によって、「立憲主義の危機」と憲法学者が口をそろえて言うような状態になってしまっています。

一九一八年と一九九五年の相似性

中野 立憲主義の崩壊に至るまでの時代状況という点でも、戦前と戦後はよく似ています。
 もう一度、時代区分の第三期を詳細に見てみると、戦前では、一九一八年に第一次世界大戦が終わってしばらくすると長期の不況に突入し、農村では深刻な貧困に見舞われました。同時に、急速な都市化や群衆の流動化によって、地域の共同性やトポスが喪失してしまう。
 一方の戦後の第三期では、一九九五年に阪神・淡路大震災とオウム真理教事件が起こる。さらにバブル崩壊の影響が本格化するのもこのころからです。以降、グローバル化によって非正規雇用も急増して格差や貧困の問題が顕在化していきます。
 一九一八年と一九九五年。前者は「明治維新後五〇年」であり、後者は「戦後五〇年」です。つまり戦前と戦後はいずれも五〇年目を境にして、社会基盤が急速に弱体化していくという共通点をもっています。
島薗 そういう時代状況の中で、全体主義が忍び寄ってきました。 中野 ええ。天皇機関説事件が起きた一九三〇年代は、血盟団事件、五・一五事件、二・二六事件など、超国家主義者によってテロやクーデターが次々と起こされた時代です。
 私は、二〇〇八年に秋葉原連続殺傷事件を起こした加藤智大や、ネット右翼の参加者たちが、戦前の超国家主義者と重なって見えます。その共通点を考えているなかで突き当たったのが「煩悶青年」と呼ばれる明治後半期の若者像でした。
 日清・日露の戦間期、つまり一八九五年から一九〇四年ぐらいの時代に、国家の物語に関心がなく、いかに生きるかと苦悩し、自己の内面と向き合ってばかりいる「煩悶青年」が大量に生まれます。
島薗 歴史的によく知られているのは、一九〇三年に華厳の滝に飛び込み自殺をした藤村操ですね。藤村は、当時のエリート養成機関と言っていい旧制一高の学生でした。自殺現場のそばの樹木には「我この恨を懐いて煩悶、終に死を決するに至る」という言葉が書き残されていて、そこから「煩悶」という言葉が流行しました。そして、この煩悶青年の中から超国家主義者になっていった人間も少なくない。
中野はい。満州事変を指揮した石原莞爾、血盟団事件の首謀者である井上日召、二・二六事件の理論的指導者である北一輝はみな一八八〇年代生まれで、煩悶を抱えながら青年時代を過ごしている。そして一九二〇年代を通じて、格差や貧困が拡大していくと、煩悶青年たちは、超国家主義者へと先鋭化していくわけです。
 秋葉原事件やネット右翼の台頭も、その背景には九五年以降のすさまじい流動化や個人化の進行があります。居場所のないなかで、彼らは暴力的な行動や過激なナショナリズムにそのはけ口を求めていきました。
 そして社会が流動化して承認のリソースが不足すると、必ず出てくるのがユートピア主義です。「今の世界とは違う本当にすばらしい世界があるはず」というユートピア主義的な精神性は、戦前の超国家主義者からオウム真理教、加藤智大、ネット右翼まで共通しています。

なぜ宗教は国体論に傾斜していったのか

島薗 宗教史から見ると、今中島さんが挙げた石原莞爾、井上日召、北一輝はみな日蓮主義に帰依していたという共通点をもっています。つまり、三人はいずれも青年時代に日蓮主義を経由して、最終的に極端な超国家主義に身を投じていった。
 日蓮主義と超国家主義、あるいは日蓮主義と全体主義の関係は、これまでもかなり多く論じられてきましたが、中島さんはそれを「煩悶青年」という角度から議論している点が興味深く思えました。
中野 私が戦前の煩悶青年に注目するのは、彼らの多くが宗教を通過しているからです。それは日蓮主義に限らず、親鸞主義を通過している超国家主義者もいます。その典型は、天皇機関説排撃の急先鋒となった三井甲之です。あるいは、北一輝とともに革新右翼として知られる大川周明も、中学時代から人生論的煩悶の出口を宗教に求めていた人物でした。
 同じ仏教でも、日蓮主義と親鸞主義は教義も世界観も大きく異なります。しかし戦前では、そのいずれも国家神道に取り込まれ、超国家主義者を培養していった。なぜ、伝統的な宗教や教団は、国家神道や国体論に傾斜していったのか。ここは、先生が熱を入れて説明した部分ですね。
島薗 明治の国家デザインにかかわる重要な論点ですからね。
 ポイントだけ言っておきましょう。国家神道は、皇祖皇宗、天照大神から現在の天皇に至る神的な統治者への崇敬として、江戸時代末期に構想され、明治維新後、着々と具体化されていきました。
 そこで唱えられたスローガンが祭政一致、つまり、政治の中心には祭祀をつかさどる天皇がおり、その祭祀を通して下々にも天皇崇敬がゆきわたり国民が統合されるというものです。たとえば、維新政府は政府の最高官庁として、祭祀・宣教などをつかさどる神祇官を設置しました。最高官庁ですから、行政の統括機構である太政官よりも上に位置づけたのです。その後、神祇官は廃止されますが、その主旨はかたちを変えて保持されていきます。
 重要なのは、国家神道と他の宗教との関係です。端的に言えば、国家神道は「祭祀」や「教育」にかかわるもの、あるいは社会秩序にかかわるものと位置づけられたのに対して、その他の宗教は死後の再生や救いの問題、あるいは内面の安らぎにかかわるものだとされたわけです。
中野 国家神道は、「宗教」というカテゴリーには含まれなかった。いわゆる「神社非宗教説」ですね。
島薗 そうです。近代国家は、西欧の常識にならって、信教の自由を認めなければならない。だから日本も、信教の自由を認めて、政教分離を制度化する体裁は整えたわけです。しかし同時に、国家神道を「非宗教」とすることで、国家神道の持ち場である「祭祀」や「教育」は国家が管理できるような制度設計をした。
 こうしたデザインにもとづいて、一八九〇年に教育勅語が発布された後は、学校での行事や集会を通じて、国家神道が国民自身の思想や生活に強く組み込まれていきました。いわば「皇道」が、国民の心と体の一部になっていったのです。その結果、伝統宗教を布教する側も国体論を身体化した国民と歩調を合わせざるをえないわけです。
 もちろん個々の宗教や教団で反省すべき点は大いにあります。しかし大きな視点で捉えるならば、先の立憲主義と同じように、明治国家体制では西欧的な政教分離システムと、東アジアの儒教文明に由来する国家神道的なシステムが一体化していたのです。ですから、ここでも軸足をどちらにおくかによって、民衆の精神性は大きく左右されることになります。
中野 島薗先生のおっしゃるように、教育勅語以降、国家神道や国体論の影響は非常に強くなっていった。しかしながら、国体論だけでは煩悶青年の実存の深い部分に届くような力はもちえないから、宗教が彼らの受け皿になっていったのでしょう。
 だとすると、それらの宗教の教義の中にも国体論と結びつきやすい要素があったのではないかというのが私の問題意識でした。たとえば日蓮主義の教義には、そもそも国家救済のビジョンがあります。そのために、国体論と融合し、日本が中心となって世界を統一するという「八紘一宇」の理念が日蓮主義の中から生まれました。と同時に、こうした日蓮主義の世界変革的な理念は、北一輝のような革新右翼が生まれる磁場にもなったわけです。
 それに対して親鸞主義者は、「自力」や「計らい」を徹底的に否定する他力の思想が、国体論と接続しました。すなわち、自力を捨て、天皇の大御心と自分たちを一体化すれば、ユートピアは現前すると考えるわけです。

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中島岳志(なかじま たけし)

政治学者。1975年、大阪府生まれ。北海道大学公共政策大学院准教授などを経て、2016年3月より東京工業大学教授。専門は政治思想史。05年、『中村屋のボース』(白水社)で大佛次郎論壇賞受賞。

島薗 進(しまぞの すすむ)

宗教学者。東京大学大学院人文社会系研究科名誉教授、上智大学神学部特任教授、同大学グリーフケア研究所所長。日本宗教学会元会長。1948年、東京都生まれ。専門は近代日本宗教史。主な著書に『国家神道と日本人』(岩波新書)など。