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多様性を考える言論誌[集英社クォータリー]kotoba(コトバ)
 
負け続ける日本を作る「英語化」政策の大罪 [対談]施 光恒(政治学者)×白井 聡(政治学者)

静かに進む日本社会の英語化

白井 今年は敗戦後七〇年の節目の年です。しかし、アメリカとの関係を見れば、対米従属構造は強化されるばかりだと言っていい。集団的自衛権にしても、TPPにしても、政財官をあげて従属強化に向けて突き進んでいる。
 そして、社会の根底から対米従属構造を強化することになるのであろうある動きが、見えづらいながらも着々と進行している。それが日本社会の「英語化」政策です。
 施さんの近著『英語化は愚民化──日本の国力が地に落ちる』(集英社新書)の冒頭でいきなり衝撃を受けたのは、英語を公用語とする「英語特区」が政府の諮問会議によって提案されたという事実です。日本の国内でありながら、日本語をしゃべってはならない、使ってはならない。その地区で日本語をしゃべると、お巡りにつかまるのか、罰金を取られるのか、それとも「方言札」を首からぶら下げられるのか……。こういう馬鹿げたことを嬉々として提案する人々がいるというこの国の状況に、あらためて暗澹たる気持ちになりました。
 英語化と言うと、楽天やユニクロ、最近ではホンダの企業内公用語の英語化というのが頭によぎるかと思うのですが、今、進んでいるのは私企業内のことだけではありません。もっと公的な領域、あるいは社会全体の英語化が推進されつつあると言っていい。このままTPPが締結されれば、行政部門の英語化もかなり進むでしょう。教育の分野でも英語教育偏重が加速している。
 こんなふうに、なし崩し的にビジネスや大学教育など日本の社会の第一線が英語化されてしまうと、どうなるかでしょうか。英語が得意か否かという教育格差が、収入などの経済格差に直結し、究極の分断社会が誕生します。どんなに他の能力が高くても英語力がないというだけで、中間層の人々は自己の能力を磨き、発揮する機会を奪われる。日本の誇る中間層が愚民化を強いられ、没落するのです。
 日本人の英語力が向上すれば、アメリカとも対等にわたり合えるようになるという英語化推進派のもくろみは、幻想にすぎません。非英語圏の雄である日本の社会が英語化されれば、英語による支配のピラミッドを強化することになり、しかもそのピラミッドの中で日本は底辺にしか位置できない。
白井 おっしゃるとおりです。手前味噌な言い方をすれば、施さんの『英語化は愚民化』は、私が『永続敗戦論──戦後日本の核心』(太田出版)で描いた戦後日本の構図と直結していると思って読みました。英語化することによって、日本は永遠に負け続ける。
 今日、白井さんとお話をしたかったのも、まさにそうした文脈でこの問題、つまり「英語化」政策によって日本が失うものはなんなのか、そして日本はどうすればよいのかを考えたかったからです。
白井 つまり、言語における「永続敗戦」状況を考えようということですね。

英語化は国家の自殺行為である

 その話に入る前に「英語化」政策の具体的な事例を読者のために説明しておきたいのですが、たとえば、教育行政です。私たちが身を置く大学業界でも、英語化は信じがたい速度で進められていますよね。英語の授業を増やした大学には巨額の補助金を与えるとか。
白井 施さんの九州大学はスパグロに認定されたでしょ? 例のスーパーグロテスク大学(笑)。いや、失礼、スーパーグローバル大学。この言葉、口に出すのも恥ずかしいから言いたくないんです。
 確かにグロテスクな制度ですね。教育・研究のグローバル化を図ると手を挙げ、認定されれば、最大一〇年間で五〇億円の補助金が与えられる。その補助金を得るための基準の一つは授業の大規模な英語化です。九州大学は四分の一の授業を英語化すると決め、京都大学に至っては、一般教養科目の半分以上を英語で講義するという計画を打ち出した。東京大学の理学部化学科は、すでにすべての授業を英語で行っている。
白井 この制度を文科省が創設した理由は、アングロ・サクソンの作った評価基準での世界の大学トップ一〇〇を目指すという情けない話なんですよね。ランキング一〇〇位内に入るために授業を英語でやれ、と。
 おかしな話ですよね。日本人が最も深く思考し、創造力を発揮できるのは日本語を使ったときですよ。英語で授業をすると世界の一流校になれるという発想は異常です。
白井 その点、ヨーロッパの大学はえらい。アングロ・サクソンが作ったランキングなんて本気で受け止めていないですからね。
 学内でも、いかに英語化を推進するかという会議が延々あるわけです。しかし、私に言わせれば、英語化推進派の先生方は、ご自分たちが何をやっているか、まったくわかっていない。
 たとえば九大では、今後採用する新任教員に、着任後の五年間、英語での授業の担当を義務づけています。そうなれば、新規採用時にはネイティブの先生をなるべく採ろうという話になるのは目に見えている。あるいは、日本の大学院ではなく、海外の大学院で学んだ研究者を採用しようということになるでしょう。
 そんな採用方針が日本中の大学に広まれば、日本の大学院に進学し、研究者を志す学生などほとんどいなくなりますよ。優秀な学生ほど将来を考え、海外の大学院を選択するようになるでしょう。日本の大学院教育は、実質的に消滅してしまうのではないでしょうか。一部残ったとしても、日本語ではなく英語で授業が行われるようになる。これでは、日本独自の学問研究など発展するわけがありません。
白井 英語化推進は大学にとって自殺行為以外の何ものでもない。こうした施策が何をもたらすことになるのか、本気で考えた形跡などありません。文科省はもちろん、大学関係者の多くにその能もないし。重要なことを決めている連中は、多くの場合、年齢層的に逃げ切るだけの人たち。後は野となれ山となれ、です。
 日本語が学問研究の高度な議論の場で使われなくなっていけば、日本語そのものも最先端の用語をもたない遅れた言語へと堕ちていくでしょう。日本語の劣化も国民の愚民化に拍車をかけます。一方で、表面上滑らかに英語が話せるだけのエリートもまた、母語にもとづく深い思考力や洞察力をもてないからたいしたものにはなれない。結局、日本全体が愚民化していきます。
 こういう事態が、社会のあらゆる分野ですでに始まっている。しかし、日本語をビジネスや教育、あるいは行政における高度な議論の場から撤退させるとどういった帰結を招くでしょうか。当然ですが、母語で思考しなくなった国が衰弱するのは当たり前です。先ほどの白井さんの言葉を借りるなら、国をあげての英語化は国家の自殺だと言ってもいい。 
白井 どう考えてもこんなにおかしいことはないのに、なぜ正面切ってそんなのおかしいじゃないかと言えない雰囲気が支配的になったのか。反省すれば、私たちの理論武装が足りていなかったんだと思うのです。闇雲な英語化なんて馬鹿げたことを進めていった暁には、確実に日本全体が劣化するんだということを、確かな証拠と論理で主張していかなくちゃいけない。だから、それをやった今回の施さんのお仕事は、今後の闘争のために役立つ優れた本であると、私はたいへん心強く思ったわけです。愚劣なグローバリストの跋扈に終止符を打たなければなりませんから。

英語化を拒否して成功した明治の近代化

白井 英語化が日本を劣化させるという重要な証拠の一つとして、施さんは明治期の日本の近代化の事例を挙げていらっしゃいますよね。
施 明治日本の近代的国作りが曲がりなりにも成功したのは、英語化を拒んだからなんです。明治初期にもあったんですよ、英語を公用語にしなければ世界に追いつくことができない、という議論が。しかし、福澤諭吉や福沢の弟子の馬場辰猪らが大反対した。結局、明治の人々は近代日本を建設する際に、日本語を捨て去るのではなく、日本語を発展させる道を選んだ。外来の先進の知を日本語に翻訳することによって、エリートだけでなく、広く万民が知識を共有できるようにした。
 たとえば、私たちが普通に使っている、「社会」「近代」「経済」などといった言葉は、外来の抽象概念を明治期の人々が翻訳して作ったものです。彼らは、日本語の語彙を豊かにすることで、新時代に対応したんです。日常の言語である日本語を高度な議論にも耐えうる「国語」として確立した。
 日本の中間層のレベルが高いのは、そのおかげです。多数の一般の人々が能力を磨き、またその能力を発揮しやすい日本語の公共空間を確立した。これが近代日本の国力の源だったわけです。だから、国民の英語力を上げれば日本経済も復活するなどという言説は、噓ですね。英語化すれば、多くの日本人が社会の中心部から排除されてしまう。自分の能力を磨き、発揮していくことができなくなってしまいます。
白井 フィリピン、マレーシア、インドといった植民地化によって言語まで支配された国の悲哀というのを英語化推進派は理解していないんですよ。
 そうなんです。英語を操るエリートと母国語で生活する庶民とに社会が分断され、大多数の庶民はたとえ能力があっても、英語ができないというだけで馬鹿にされ、コンプレックスに打ちひしがれる。世界では日常的な光景なのに、「国際派」をきどる英語化推進派の人々は、それにはまったく気づいていない。

言語の「永続敗戦」レジーム

白井  施さんが非常にいいことをお書きになっているなと思ったのは、本当の意味で最も知的な作業というのは、言葉にできないもの、暗黙知のようなものを、どうにかして言葉に落とし込んでいくことだと。私も全く同感ですね。それはやはり、母語でなければできない。
 それから、言語は思考の根源を規定しますから、学術の言語が一つ消滅することは、発想の形態が一つ消滅することを意味します。これは理系も文系も関係ない。学術言語が英語に一元化されていくことは、長期的には学術全般の貧困化、人間の知の可能性の縮減を意味します。
 グローバリストからの反論としてとり上げるに値するのはこういうものです。人文社会科学系でも、たとえば哲学者のスラヴォイ・ジジェクを見ろと。彼はスロベニア人だけれども、英語を使って世界をまたにかけて活躍しているじゃないか、ああいうふうに日本人もやればいいじゃないかと。
 しかし、こういう主張に視点として欠けているのは、はたしてジジェク自身が、それをよしとしてやっているかどうか、ですよ。絶対にそんなことはない。彼がそれを大いなる悲しみと憤りとともにやっていることは間違いないんですよ。
 百歩譲って、英語化やグローバル化が現在の必然的な流れだと認めたとしても、それはたいへん悲しいこと、屈辱的なことであるはずです。ところが、英語化推進派の人たちには、そういう感覚が一切ないらしい。
 TPPにしても英語化にしても、日本社会には、アメリカ主導の「グローバル化」に対する怒りや悔しさというものがまったく見えないんです。自分たちはアメリカとかアングロ・サクソンの力に、屈するしかないんだという悔しさが、本来あるべきなんです。
 なぜ日本人がこれほどまでに、アメリカの言うことに唯々諾々と従ってしまうのか。過剰に順応してしまうんですね。要するに日本人は、心理的な認知不協和の状態におかれるのが嫌なのでしょう。自分と相手のものの見方が違うという事実を認めること自体が、日本人にとってたいへんなストレスなんですね。
 ノルウェー出身の政治学者ヤン・エルスターが「適応的選好形成」と呼んでいますが、負けているのに、それを認めることすら嫌なので、自分は自ら相手方に同調したんだと錯覚していく。
 白井さんが『永続敗戦論』で鋭く指摘なさった言葉で言えば、「敗戦の否認」です。戦後、日本人は戦争に「負けた」ということを認められなかった。それでアメリカによる統治、支配を、善意や進歩という幻想に置き換えて解釈してきたというわけです。
 それどころか、もっと問題なのは、英語化を推進する勢力には、「私たちは何者か」という認識すらない。自分たちをアメリカ人だとでも錯覚しているんじゃないかという感じさえするんです。
白井 少なくとも、アメリカは日本を愛してくれているという巨大な妄想を抱えているのは間違いない。覇権国アメリカになんらかの意味で依存していない国なんて、世界を見渡しても、ほとんどない。けれども、日本の対米従属が奇妙なのは、アメリカは日本を愛してくれているというフィクションによって支えられているということです。
 アメリカへの片想いのように甘ったるい考え方で英語化も受け入れてしまっている。
白井 そこが怖いところです。英語化もグローバル化も、推進したところで、日本の得にならないという事実を認めることができない。アメリカと同化するほうが心地いい。でも、その結果、どれほどのものを我々が失うのか、という事実から目をそらしてしまうことになる。戦後七〇年たっても、ますます日本は負け続ける。これが終わらない敗戦、「永続敗戦」ということなんです。
 英語が世界言語になった端的な理由は何かと言ったら、それは本当に身もふたもない話で、アメリカとイギリスが戦争で勝ち続けたからに他ならないんです。言語的な支配が永続すれば、彼らが得をする。それ以外には何にもないんですね、本質的な理由なんて。
 日本の社会を日本人が自ら進んで英語化するということの本質は、負け続ける構図を自分で作りつつ、そこから目をそらし、結局、永遠に負け続けるということなのですよね。

グローバル化で進むエリートたちの「愚民化」

白井 実際、自分たちが何者なのかということを見ようとしないのが、英語化推進派の人々の典型的な態度です。楽天の三木谷浩史氏は自社の英語化推進だけでなく、政府産業競争力会議のメンバーとして、国全体の政策的な英語化の旗振り役もしていますが、彼はドワンゴの夏野剛氏と一緒になって、学校で日本史なんか教えなくていい、などと発言しているわけです。
 あの新興ブルジョワジーの方々の自己認識の中には、日本人として日本の歴史を背負った存在である自己を認識しながら生きる、という人間観がそもそもないらしいんですよ。
 そういう感性の新世代の資本家たちは「言語はツールにすぎない」とも言うんです。言語や文化が自分の精神をよくも悪くも作っているという実感がないんでしょう。文化も言語もたいしたものではなく、すべては自ら選び取ることができる選択の対象にすぎない。ナショナリティや文化なんて、「オレたちが選択できるんだ」みたいな感じになっている。

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施 光恒(せ てるひさ)

政治学者。九州大学大学院比較社会文化研究院准教授。1971年、福岡県生まれ。慶應義塾大学法学部政治学科卒業。英国シェフィールド大学大学院政治学研究科哲学修士課程(M.Phil)修了。慶應義塾大学大学院法学研究科後期博士課程修了。博士(法学)。専攻は政治理論、政治哲学。主な著書に『英語化は愚民化』、共著に『TPP 黒い条約』(共に集英社新書)など。

白井 聡(しらい さとし)

政治学者。京都精華大学人文学部専任講師。1977年、東京都生まれ。早稲田大学政治経済学部政治学科卒業、一橋大学大学院社会学研究科博士後期課程単位修得退学。博士(社会学)。日本学術振興会特別研究員などを経て現職。専攻は、政治学、社会思想。著書に『増補新版 「物質」の蜂起をめざして』(作品社)など、共著に『日本戦後史論』(徳間書店)など。