▼資本主義的価値観から抜け出す

 行動しない態度だけを見ると、日本人は変わっていないように見える。
 では、私は、日本人のどの部分が進化したと考えているのか。
 それは、心のありようの進化だ。具体的にいうと、欲求の対象が進化しているのだ。
 日本人は資本主義に支配された生活スタイルから抜け出し始めている。資本主義の価値観を超えようとしている。物質的な欲求に縛られなくなってきたのだ。
 日本では、個人の大切なものが、金銭から、生活、信頼、コミュニティへの貢献という、かたちのないものにシフトしつつある。物質的な欲求を追求し続けても、下降する経済規模と自分の資本主義的な欲求がミスマッチになり、結果として不幸になるという認識を持っている。
 それは、特に若い世代に顕著な傾向だ。日本の若者は、経済の動きによって左右される事柄は、自らの幸せではないと定義しているように見える。大金を稼ぐこと、高級車やブランドバッグを所有することには興味がない。他人、そして他国との競争にはよいイメージを持っていない。シェア争いのようなゼロサムゲームに未来がないことを、本能的に感じ取っているのだ。彼らは日常生活の中で得られる内面的充足に価値をシフトし、自分なりの幸せを感じている。自分で幸せを定義する力が養われているのだ。
 私が慶應義塾大学で受け持っていたゼミでも、就職において金銭面を重視する学生はほとんどいなかった。共に働く仲間とのつながりや社会貢献といった内面の充実を志向し、ソーシャルビジネスに興味を持つ学生が多かった。企業よりも非営利法人や財団へ就職したいと考えている人があまりにも多く、こちらが少し戸惑ったほどだ。
 若い世代ほど、経済は成長しないものだと考えている。生まれてこの方、好景気だったことがないからだ。現状がピーク。後は悪くなっていくだけ。そんな中で、今現在をどう生きるかということに対する感性が、鋭くなっているのである。

▼物質的な豊かさは過去のもの

 しかし近隣諸国では、まだまだ物質的な欲求が幸せの概念に直結している。中国では今、生活レベルも賃金も急角度で上がっているが、自分の周りを見るとさらに極端に増えている。だから、自分はそんなに上がっていないように思えてしまう。そうして、満ち足りることなくさらに上を目指していく。
 人間は快楽に対する適応能力が高い。自分が夢見ていたものが現実になると、その瞬間にそれは価値を失い、次の快楽を求める傾向がある。
 かつて憧れの対象だった物質的なモノの典型例にテレビがある。私が子供の頃住んでいた韓国の田舎では、村に一台だけ白黒テレビがあった。サッカーのワールドカップなどがあると、近所のみんなでそこに集まったものだ。遠くから少し画面が見えるだけでも幸せだった。ゲームもそうだ。私は子供の頃、ゲームセンターのゲームに、「これをずっとやっていられれば、死んでもいい」と思うくらい熱中していた。
 それが今はどうだ。経済力がつき、家電の単価は下がり、必要なものは苦労せずとも手に入るようになった。そうなると、テレビもゲームもあの頃の輝きを失い、私には必要ないものになってしまった。
 高度経済成長初期の日本では、テレビ、洗濯機、冷蔵庫は「三種の神器」と呼ばれ、人々はそれをこぞって買い求めた。そして、それはあっという間にコモディティ化した。おもちゃを買い与えられすぎた子供が、次の日にはもう別のおもちゃがほしくなるように、物質的な欲求はすぐに更新されていく。物欲には限りがない。
 それは人間に内在した欲求なのか。それとも、資本主義が人々の社会的なステータスに連動させ、快楽の軌道をうまくデザインしたのか。それは私にはわからないが、本質的な幸せにはつながらないだろう。アメリカはある程度人々の生活が満たされたとはいえ、カジノゲームのように資本主義というゲームにはまり込んでいるように見える。それを続けるしかなくなっている。
 だが、わかっているのは、成長至上主義で走り続けることが、必ずしも人々のクオリティ・オブ・ライフを高めることにつながらないということだ。
 日本は今、成長をある程度犠牲にしたとしても、生活の質を考える余裕がある、世界の中でも稀な状況にある国になったのだ。このままでは、日本はずっと沈んでいくのではないかと不安感を抱いている人は多いかもしれない。しかし、沈んでいるのではなく、資本主義的な文脈を離れ、他の次元にシフトしつつあると私は考えている。これから日本が主役の時代が来るということも十分あり得る。
 成長を前提とした社会が崩れた今、日本は人類が初めて到達する領域にいるのだ。