遠い記憶は夢と同じようなものだ。
 なにもかもおぼろで曖昧な、静止画が少しずつ仕方なく連動していくような、いたって頼りないあわいの風景がよく似ている。
 遠い記憶も、その朝見た夢も、どちらもやるせないモノクロームで投影される。
 ぼくの最初の記憶は─あの風景は─たぶん生家のものだ。広い廊下をぼくはひどく心細い気持ちで歩いている。誰か大きな人の影が横切って、それはそれで終わる。
 その次の記憶は石垣の間の階段をぼくは大きな下駄をはいて苦労して降りている。
 すると目の前の道をアメリカのジープが走ってきて、そこにはMPが乗っていた。ぼくは恐怖で泣きながらまた石段を登っていく。
 いつか兄や姉にその話をしたところ、それはあんたの生まれた世田谷の家だ、と明確におしえてくれた。
 生家、三軒茶屋の家は大きく、広い廊下がL字状になっていた。土地は五〇〇坪あったというが、四歳のぼくにはその広い庭の記憶はない。一九四四年生まれのぼくが世田谷でMPの乗ったジープを見る可能性はおおいにあった。でもあのときぼくが歩いていく廊下の前を通りすぎていった巨人はいったい誰なのだろう。
 次の記憶の風景は、それからもうずいぶん大きくなって、新潟県の柏崎の海岸だった。
 ぼくは一人で広い海岸に出ていて、浜のむこうの巨大な波濤を眺めていた。恐ろしい風景で、濡れた海岸のいたるところに大きな肉片がころがっていたのを鮮明に覚えている。誰かがそれを「鯨の肉だよ」とおしえてくれた。なぜ柏崎の海岸に鯨の肉片がころがっていたのか、それも謎だった。鯨の肉だよ、といったい誰がおしえてくれたのかもわからない。
 記憶は冷淡だ。
 あの波濤は夢と区別のつかないこころもとなさで、ぼくの記憶の断層のずっと深いところにまだ堆積したままゆっくり逆まいている。人生が進んでいくにつれて、その上に容赦なくおびただしい数の騒々しい風景が蓄積し、おそらくとんでもない圧力をかけているのだろうに、小さい頃にぼくのなかに焼きついた弱々しくおぼろな記憶は意味とか理由とは無関係に生き続けている。
 大人になってから好きになった、でも、逢うたびに不機嫌だった女の記憶も、いまは茫洋としたものになってしまった。月に一度か二度は逢っていたから恋人なのかもしれないが、それならなぜあんなに不機嫌なのかぼくには謎で、その謎はずっととけずにいた。
 海のにおいのする、遠いむかし埋め立てされた江戸の気配のする町の隅の酒場で若いのに会話の少ない酒を飲み、ぼくはなんとなく途方にくれて湿気のある外の闇に出た。
 近くに運河があって、その低い堰堤の上を並んで歩いた。もうこの女性と逢わなくなってもいいや、とぼくは歩きながら考えていた。そのときいままで行き先の風景を遮蔽していた大きな倉庫を曲がると、対岸に夜の観覧車が見えた。それは輪郭に沢山の小さな電気をつけて、ゆっくり回っていた。
 その日も酒場で女はなにごとか怒っていたのだが、その観覧車を見てから急におとなしい声になって「いいわ。もう何も怒らない」と言った。その声を聞きながらぼくは観覧車にむかって歩いていた。二〇歳を少しこえたぐらいの歳で、ぼくは写真の勉強をしていた。だからよく撮れるかどうか自信はなかったが夜の観覧車を撮ってみた。
 その写真は、まだぼくの手元にある。いつも怒っていた若い娘の顔はもうすっかり忘れてしまった。その居酒屋も、たぶんないだろう。
 曖昧な記憶と、写真だけが残った。
 そんなふうなさして意味のあると思えない、数々の自分の人生のなかに堆積した記憶の断層を掘りこんでみるように、いま辿れる場所を歩いてみた。東日本大震災のように、ある日突然消えてしまうかもしれないかけがえのない風景もあるはずだ。
 風景が消えないうちに、風景の多くの断片が衰えないうちに、それを大急ぎで回収するような気持ちでランダムに歩いてみた。もしかするとそういうところを歩いていくことによって何か途方もないものを見つけることができるかもしれない、というささやかな胸さわぎみたいなものもあった。
 何も確信がないのとおなじくらい何も期待せずに、それぞれ短い時間、歩いてみた。
 思いがけない感慨のある風景と、落胆に近いような風景があった。それは予想されたことであり、どっちでもよかった。
 尋ねあるいた場所でもっとも遠かったのは南西諸島のイリオモテ島だった。
 人口五〇人の、船でしか行くことのできないその集落は、風景としてはずいぶん変わってしまったけれど、人口は相変わらず五〇人だった。もちろんその五〇人もおそらく「そっくり」といっていいほど入れかわってしまっていたはずだ。
 ずっと以前、はじめてここに来たとき、犬が一匹いて、ぼくはわりあい長く滞在していたのでその犬とはずいぶん親しくなった。
 今度行ったときにも犬が一匹いた。
 えらく暑い日だったのでその犬はずっと海の中に入っていた。この本のある章に書いたが、犬は自分でそのあたりの海の深さを知っているようで、なるべく背のたつところだけ選んで歩き回っていた。その背後に大きな夏の雲がゆっくり東に流れていた。
 その光景は、おそらくぼくの記憶の断層のもっともあたらしいところに堆積していくような気がしたので、この本ではその光景を表紙にした。
 ぼくはまだ、もう少し、人生のいろんな風景を見ていくことになるだろう。懐かしい風景をふりかえるよりも、数は少なくてもいいから、静かにこころ静まるまで眺めることができるようなやわらかい風景を見つけてみたい。