序にかえて 中野剛志
二〇一一年三月に『TPP亡国論』を上梓したのに、なぜまたTPP(環太平洋経済連携協定)をテーマとした書を刊行するのか。その理由について、編者として一言、申し上げたい。
『TPP亡国論』でも明らかにしたと思うが、私の目的は、TPPに対する批判もさることながら、それ以上に、TPP批判を通じて、日本人の「論の進め方」に異を唱えることにあった。
『TPP亡国論』の出版から、TPP交渉への参加が決まるまでの約二年の間、本書各章の執筆者を含む多くの論者たちの努力により、TPPが孕む重大な問題点がいくつも浮き彫りになった。それにもかかわらず、この間、TPP賛成論者の「論の進め方」には、改善どころか、変化すら見られなかったのである。だから、再び、問い糺さなければならないのだ。
たとえば、TPP賛成論者たちの多くが、二〇一〇年から「早期に交渉に参加しなければ、有利なルールを策定できなくなる」と主張してきた。しかし、二〇一三年になって、交渉に遅れて参加した国は、ルール作りの余地が著しく限定されることが判明したにもかかわらず、彼らの中から「もはや遅すぎるので、交渉に参加すべきではない」という声は、皆無と言っていいほど聞かれなかった。
また、TPP賛成論者たちには、韓国が米韓FTA(自由貿易協定)を締結したことをもって、「TPPに参加しなければ、韓国企業に対して不利に立たされる」と主張する者が少なくなかった。だが、韓国企業の優位はFTAではなく為替レートによるものであり、実際、安倍政権の金融緩和による円安で韓国企業の競争力は大きく後退した。しかも政府は、交渉参加のためのアメリカとの事前協議において、米韓FTA以上にアメリカに有利な自動車関税の措置で合意してしまった。それにもかかわらず、TPP賛成論者の中から、「これではもはや意味がないので、交渉参加は断念すべきだ」という意見はほとんど出なかった。
こうした例は他にも枚挙にいとまがないが、要するに、TPP賛成論者たちは、初めから、TPP参加の正否にはさしたる関心がなかったのであろう。彼らの議論の目的は、TPP参加の方向で話をまとめることだったのであろう。
しかし、このように歪んだ「論の進め方」は、何もTPP問題に限らず、他の政治・経済の論争から、職場や近所づきあいにいたるまで、あらゆるところに見られるのではないだろうか。私には、こうした傾向は、日本人の国民性によるものではないかとすら思われる。
と言うのも、稀代の批評家である福田恆存が、「日本および日本人」の中で、次のように述べていたからである。「日本人にとつて、どつちが正しいかといふことは二義的なことなのです。大切なのは摩擦といふ醜い状態から早く脱して、和合に到達することであります」。
本書を読み終えた読者は、「なぜ日本は、TPP交渉への参加を表明してしまったのか」という思いに必ず駆られることだろう。その疑問に対する答えのヒントは、この福田の日本人論にある。すなわち、TPP参加の正しさではなく、国内の対立、あるいはアメリカとの摩擦という状態から早く脱したいという焦燥感が、日本人をしてTPP交渉への参加へと駆り立てていったというわけである。TPPは国論を二分したと言われるが、本当の意味での議論など、行われてはいなかったのだ。
日本人は、元来、和を尊ぶ国民性をもっていた。それが明治になって、他人を自己の敵とみなすかのような西洋の対人関係や、正邪・善悪・権利義務をはっきりさせようとする西洋の制度がもち込まれた。そして、日本の文化や日本人の国民性を省みない、性急かつ無批判な近代化が進められたのである。これこそが、日本および日本人の混乱の原因である。そう指摘する福田は、「近代日本の弱点は、……ひとへにその似而非近代性にもとづく」と断定している。
私は、「世界の流れに乗り遅れるな」「内向きにならず、外に打って出よ」「外圧で日本を変えよ」といったTPP賛成論者たちが繰り返す台詞に、福田の言う「似而非近代性」の典型を見る。
物事の正否や善悪を議論することすらまともにできない似而非近代的な日本人が、自己の内に目もくれず外に打って出ると、どのような混乱が引き起こされるのか。福田は、こう指摘する。
近代戦に馴れない人間が近代的戦争に手をだした結果が、残虐不法な戦争を招来し、国家主義に馴れない国家が国家主義をまなんで超国家主義になつた。同様に、権利義務の契約にもとづく個人主義に馴れない人間が、その制度や法律を移入すれば、それはたんなる利己主義を助長するにしか役だたぬのです。
これは、TPP参加がもたらす事態を予見しているかのようである。近代日本が幾度となく経験してきた似而非近代性による悲喜劇を、我々はTPPによって性懲りもなく繰り返そうとしているのだ。
私がTPP参加を執拗に批判してきたのも、そこに近代日本の弱点である「似而非近代性」という、とてつもなく大きな問題が横たわっているのを感じてきたからに他ならない。TPPとは、それだけ根が深い問題なのだ。
では、この日本人の似而非近代性がもたらす悲喜劇に対して、我々はどうすればいいのだろうか。
だが、福田は、「どうすればいいのか」という安易な問いを発することを戒めるのである。
なぜなら、日本をああしよう、こうしようとする性急さこそが、似而非近代性による混乱をますます悪化させてきたのだからだ。
その代わりに、福田は、ただ次のように助言するのみである。
そのまへに、まづ自己の現実を見ること、それからさきは、ひとりひとりの道があるだけです。いや、ひとりひとりの道しかないといふことに気づくことが、なによりも大事だとおもふのです。私がいひたいのはそれだけです。(中略)ただ、そのばあひ、どういふ道を歩むにせよ、自分の姿勢の美しさ、正しさといふことを大事にして、ものをいひ、ことをおこなふこと、そのかぎりにおいて、私たちは日本人としての美感に頼るしかないと信じてをります。
我々が「ひとりひとりの道しかないといふことに気づく」こと。これを福田は「ほんたうの意味の個人主義」と呼ぶ。それを身につけることによって、「『日本および日本人』の独立が可能になるでせう」。
『TPP亡国論』と同様に、本書もまた、TPP参加へと向かう動きを止めるには無力であるかもしれない。本書の執筆者たちは、非力な自己という現実を見つめ、その上で自分の姿勢の正しさということのみを大事にして、それぞれの論考を書いているだけである。
ただ、この小さな書物を材料にして、一人でも多くの読者が、今の日本が置かれた現実を見据え、「ひとりひとりの道しかないといふことに気づく」こととなれば、望外の幸せである。それより他に、日本および日本人の独立を可能にするすべはなく、そしてそれこそが本書刊行の理由だからである。