世界の「空間」と「時間」への興味
私たち人間は、自分の生きているこの世界のことを知らずにいられません。
まず第一に、この世界が「空間的」にどうなっているのかを知りたいという気持ちがあります。その欲求の背景には、好奇心もあれば、不安もあるでしょう。
知らない町に行ったとき、とりあえず地図を持って周辺を歩き回ってみるのもそのためです。赤ん坊でさえ、母親の手から離れて自力で移動できるようになると、家の中を一生懸命に這い回り、隣の部屋がどうなっているのか、壁の向こうに何があるのかを探ろうとする。それを思うと、これは人間が生まれつき持っている根源的な欲求だといえるのではないでしょうか。
また、私たちは「過去」や「未来」のこと─つまり自分の置かれた世界の「時間的」な成り立ちも知りたがります。
その最たるものが、自分の「起源」に対しての興味にほかなりません。「今ここ」にいる自分は、一体どのようにして生まれたのか。そのルーツを、「時間」を遡ることによって知ろうとするのです。
そして、この「空間」と「時間」への興味は、決して別々のものではありません。たとえばあなたは、星のまたたく夜空を見上げながら、宇宙の空間的な広がりに思いを馳せているときに、こんなことを考えた経験がないでしょうか。
「もし人間がいなかったら、誰も宇宙の存在を知らないはずだ。その場合、この宇宙は本当に〈ある〉のだろうか─」
これは、実に哲学的な問いかけです。
もちろん、私たち地球人が生まれていなくても、ほかの天体に知的生命体が存在すれば、彼らが宇宙の空間的な広がりに気づくでしょう。
しかし宇宙を観測するほどの知能を持つ生命体がいなかったら─それ以前に、そもそも生命体と呼べるものが存在しなかったら─宇宙が「ある」のか「ない」のかわかりようがありません。
もし、誰かが認識することで初めてそれが「ある」といえるのであれば、空間への興味と認識主体への興味は切り離すことができません。宇宙空間への興味を抱いた人は、それと同時に、宇宙の認識主体(たとえば私たち人類)がどのように生まれたのかを知りたくなるでしょう。
人間が生まれていなければ、宇宙の広がりについて考えることもできません。その意味で、この世界の「空間」と「時間」への興味や疑問は、同じ根っこを持つともいえるわけです。