はじめに
 チベットがどんなところで、どんな人が住んでいるのか何も知らない幼い頃からなぜかチベットに惹かれ、渾名は「チベット」だった。どこかで誰かから、「蒙古」「チベット」「馬賊」などの言葉を聞き、「チベットに行きたい」「馬賊になりたい」と思い込んでしまった幼い私だった。
 中学生の時に、川喜田二郎さんたちがドルポ(ネパール北西部。かつて西チベットの一部だった地で、いまもチベット人が住む)に行って調査したルポルタージュが新聞で発表され、それを読んで初めてチベットの文化と風習を知った。翌年にダライ・ラマ一四世がインドに亡命した記事が新聞に載り、チベットの地理的政治的位置を知った。それまで何も知らずに惹かれていたチベットを、おぼろげに知った中学生時代だった。
 一七世紀頃からチベットはネパールや清の侵入、列強諸国の影響を怖れて鎖国政策を採っていたが、諸外国の宣教師や冒険家、探検家、仏教僧侶などが潜入を試み、成功した人は記録を残してもいる。高校時代はそれらを夢中で読んだ。冒険譚に心躍らせ、なおいっそう、惹かれていった。だがどんなに心惹かれようが行くことは叶わないと思った。国交のない中国に組み込まれてしまったからだ。その後、日中の国交が正常化していたが、中国は一九八〇年代まで外国人に対してはチベットを非開放地区としていた。
 私が初めてチベットに行ったのは一九八七年だった。四二歳になっていた。

 一九四九年、中華人民共和国が建国宣言して、チベットを「外国の帝国主義、国民党政権による支配から平和的に解放」するといって侵攻し、手中に収めるまで、チベットは外国の統治下にあったことはなかった。一九五九年にダライ・ラマ一四世はインドに亡命し、チベット亡命政府を樹立した。抵抗するチベット人を抑えるために多数の中国軍兵士が投入され、そのため自給自足できていた食糧も枯渇して、チベット人には餓死者も多く出たといわれる。中国は本来のチベット北東部を青海省、甘粛省、東部を四川省、雲南省に編入し、一九六五年には中央チベットをチベット自治区とした。こうして中国はチベットを自国に組み入れ、「宗教はアヘンだ」として寺院や僧院も破壊していった。続いて、文化大革命が起き、チベットの文化や風習、伝統はすべて否定され、その時までに残されていた僧院、寺院も、ほとんどすべて破壊された。
 一九七六年に文革が収束すると、政府はそれまでの政策を転換し、宗教活動の復活などを許し僧院の再建なども行われるようになった。また、学校教育でもチベット語の授業もされるようになった。一九八〇年代からは外国人観光客がチベットを訪ねることもできるようになり、〝雪解けの時代〟などとも称された。私の初めてのチベット行も、そんな頃だった。

 初めてのチベット行は、高野山大学の先生やお坊様たちに混じっての団体旅行で、チベット仏教寺院を訪ねるツアーだった。私は長年憧れてきた地に立った喜びにいっぱいで、チベットの歴史的背景を深く考えることもなく過ごして帰った。その年の秋に、チベットの聖都ラサで、チベット人が蜂起したニュースが入った。翌年の一九八八年三月にも、ラサでの蜂起が伝えられたが、その一ヶ月後には私はまたチベットに行くことができた。日本と中国、ネパールの三国友好登山隊が組織されてチョモランマ(エベレストのチベット名)登頂に向かっている時で、そのベースキャンプを訪ねたのだった。この時も私は、ベースキャンプの汚さや登山隊や取材班の環境への配慮のなさにばかり目がいって、チベットが置かれている現状について、あまり見聞きせずに帰ってきてしまった。一九八九年にはいっそう大きな蜂起となって、ラサには戒厳令が敷かれた。戒厳令のニュースに触れて、私は、見るべきを見ず、聞くべきを聞かずにいたそれまでの旅を恥じた。
 それから後のチベット行では、団体ではなく個人旅行で、ガイドも日本語ができるからという理由だけで中国人ガイドに頼むのではなく、日本語ができなくてもチベット人のガイドで行くようにした。重ねていく度に知り合いもでき、一九九五年には、チベット人がチャンタンと呼ぶ北西部地域を馬でほぼ半年かけて回り、その体験を『チベットを馬で行く』(文春文庫)に書いた。それからもまた何度も通い、チベットの人たちの衣食住や生活習慣などを知れば知るほど、なおチベットに惹かれていく私がいた。そしてその後も何冊かの本を書き、更に通い続けている。惹かれると同時に、チベットが置かれている状況に、いっそう胸の痛みは大きくなるばかりだ。特に、「西部大開発」が実施された二〇〇〇年以降、環境や生活の変化は大きく、このままではチベットの文化は消されてしまうのではないかとさえ怖れる。
 この一〇年ほどの間にチベットに関する書籍は驚くほどたくさん出ているし、テレビ番組などで取り上げられることも多い。それでもまだまだチベットの実際は知られてはいないのではないかと思う。この本ではそうした、まだあまり知られていないチベットについてを書いた。
 なお、この本でいう「チベット」は、地図上で見る「チベット自治区」のみを指すのではなく、チベット人たちが自らの地としている地域をいう。それは、甘粛省、青海省、四川省、雲南省のそれぞれ一部を含み、世界の地勢図で示されるひときわ高度の高い地帯にあたる。南はヒマラヤ山脈、北は崑崙山脈、アルティン山脈、祁連山脈に、東を横断山脈に囲まれた、「チベット高原」とその周辺を含む広大な地だ。その面積は約三八〇万㎢、日本のおよそ一〇倍になる。この本では、そこを「チベット」という。だが「チベット」という呼び名は、チベット語ではない。チベット語ではチベットは「ポゥ」だ。そこを彼らはアムド(北東チベット)、カム(東チベット)、ウ・ツァン(中央チベット。ウはラサを中心とした地域、ツァンはシガツェを中心とした地域)、ンガリ(西チベット)と地域分けして呼ぶ。また特にウ・ツァン、カム、アムドの三地域を「ポゥ・チョルカッスム」という。中国支配下の現在はアムドは青海省、甘粛省、四川省の一部とされ、カムは四川省や雲南省に編入され、ウ・ツァン、ンガリはチベット自治区と区分されている。この本ではチベット人の呼び方に倣ってチベット各地を示すのに、例外を除いてはアムド、カム、ウ・ツァン、ンガリ、あるいは北東・東・中央・西チベットと記した。
 初めに少し触れたチベットの現代史についてもっと知りたい方は、どうか巻末にあげている参考文献を読んで下さるようお願いします。