はじめに

 国際政治の勉強を始めよう。戦争の条件と平和の条件を探ることが目的だ。
 学校で学ぶように、掲げられた問いに答える授業だけれど、具体的な事実や事件の説明が詰めこまれているので読めば知識が身につくという本ではない。架空の状況を設定し、こんなときにどうするか、どのような選択が妥当なのか、またどの選択が現実に採用されそうなのか、当事者になったつもりで読者が結論を下す。考える授業、自分の思考力を鍛える教室だ。
 始める前にひとこと。実例をもとにつくった問いもあるけれど、固有名詞はできるだけ外している。歴史問題を扱った章だけは、具体的な事例についての議論が中心を占めているが、ここでも掲げた問いについては固有名詞が入っていない。説明のなかでは具体的な事例をとりあげてはいるが、問いはあくまで抽象的なものにとどめてある。
 固有名詞を外した理由は、問題の所在をできるだけ一般化して示してみたいからである。日本、中国、あるいはリビア、シリアなどといった言葉が加わると、どうしても具体例の説明が中心になってしまう。それぞれの出来事についてきちんと知ることはもちろん大切だが、事実関係を知ることに関心が向かうことによって、どう考えるのが適切なのか、その問題のとらえ方を陰に追いやる危険もある。考え方をできるだけシンプルに整理することによって、まるで違う出来事の間に共通点を見つけることもできるだろう。
 ここでの課題は、個々の出来事に関する知識ではなく、答えを導き出した道筋、議論の組み立て方である。別に記号と数式で表現した理論モデルの紹介をしようというのではない。予備知識は要らないので、クイズでも解くように、すぐに先を読み進めないで、まず自分で答えを考えていただきたい。
 でも、先を読めば答えが出てくるわけではない。というのは、これから挙げるどの例をとっても、「正しいひとつの答え」は存在しないからである。それどころか、ひとつの問いに対しては常にいくつかの答えがあり、しかもそのそれぞれに論理的な根拠が存在する。それじゃ練習にならないと思われそうだけど、それは違う。
 国際政治を話す人のなかには、こうするのが正しいのだと、考える余地はないなどという主張をする人が多い。国際社会では当然のことだ、それが通らないのは日本だけだ、なんて台詞がくっつくこともある。そんな言葉を聞いていると、当然のことや常識でいっぱいなのが国際政治の世界だという気になってくる。
 しかし、これが正しい、あたりまえだと決めつけることほど国際政治で危険なことはない。文化や価値の異なる社会の間で展開するために、国際政治では、答えがひとつに定まらないのがむしろ普通のことだ。それぞれの正義を争うその空間のなかで「正しい答え」に飛びついてしまえば、自分が正しいと思う考え方、価値観、あるいは偏見によって現実に裁断を下してしまう可能性がある。意識しないで自分の信じている「正しさ」を突き放して見直すことができなければ、国際政治を考えることはできない。
 だからといって、どれを選んでもいいことにはならない。価値観を投影してひとつの答えにしがみつくのは事実上の判断停止に過ぎないが、文化や価値に応じてどの答えも正当だと考えるのなら、これはこれで判断停止になってしまう。どれほど多様な文化や価値があるとしても、倫理的選択が求められる瞬間は存在するからだ。
 正しい答えはなくても、より正しい答えは存在するだろう。ここで必要になるのは、すぐに答えを決めないで、できる限り多くの選択を想定したうえで、それらを比較すること、そしてどの答えがより適切なものだと考えられるのか、自分が下した判断の根拠を常に自覚しながら議論を立てる作業だろう。
 国際政治状況のなかには、こうしてもダメ、ああしてもよくないというジレンマに出会うことが少なくない。どう考えればいいのか、何を選んだらいいのか、「あたりまえ」で「正しい」選択が見えなくなったとき、「より正しい答え」を探す苦しい作業が始まる。これから挙げる練習問題は、どれもそんなトレーニングの材料として作成した。
 私の目的は、答えが見つからない焦燥感のなかに読者の皆さんを置くことである。答えを示すことなしに、厳しい問いだけを残して締めくくった章も多い。さあ、存分に悩んでください。