まえがき

 一九九一(平成三)年に大学審議会の答申を基に大学設置基準が大綱化された直後、多くの大学の教養部が廃止・解体され、長い歴史を有する日本の教養教育はかつてない受難の時期に突入することになった。その存亡の秋を迎えたと言ってもいい。
「大綱」とは、本来「根本的な事柄」の意である。したがって、本来の政策の目的からすれば、教養課程に関わる細かい基準を廃し、大きな理念や哲学に基づいて大学ごとに教育を自由化するはずが、それぞれの大学が自己評価に基づいて教育改革を行なった結果、専門教育の前倒しの動きが盛んになる一方で、教養教育の「発展的」解消が図られることになった。大綱化と相前後して進められた大学院重点化政策もこの流れに拍車を掛けた。
 その結果、どういうことが起こったか。「教養」と名のつく部局や組織は、さまざまな形での統廃合ののち、その名に代えて「人間科学」「国際」「言語文化」「現代文化」「情報(科学)」といった言葉、あるいは「コミュニケーション」をはじめとする外来語をその旗印に掲げることになったのである。同時に、それまでくすぶっていた教養教育批判の気運が一気に高まり、古典的な教養主義は日本各地で敗走に次ぐ敗走を続けた。「教養」と友好関係にある隣国「文学」も、かなりの量の流れ弾を浴びるありさまであった。
 一九九〇(平成二)年、まだ駆け出しの英語教師であった私は、ある医薬理系私立大学の、まさに解体直前であった「一般教養科」の専任講師の職を辞し、東京大学教養学部に就職した。日本の国立大学のなかでのちに「教養」の名を守り通すことになる数少ない学部の一つである。教養教育の根幹を成す語学教育にたずさわる英語教師としてみれば、まさにほうほうの体で崩落寸前の砦を離れ、「教養」の牙城に身を寄せる思いであった。
 以後、途中で大学院重点化政策に基づいて学部から大学院への配置換えはあったものの、一貫して「教養」と名のつく部局に属し、教養英語の教壇に立ってきた。思えば、前任校での勤務も含めると、過去四半世紀以上にわたって、「教養」の旗印の下で闘ってきたことになる。
 もとより負け戦は覚悟の上だ。さまざまな近代兵器を駆使し、実用・実学主義を奉じつつ目新しい概念を振り回して教養を潰さんと向かってくる敵に対し、ときおり矢を放ち、矢が尽きれば石を投じて抵抗を見せながら城に籠ること二十年、そろそろ兵糧も尽きようかというころになって、戦況は意外な展開を見せはじめた。
 教養教育批判の声が弱まったと思ったら、それどころか高等教育の現場で「教養」「リベラル・アーツ」、あるいは「初年次教育」などといった言葉を目にすることが増えてきたのである。まるで城の外が妙に静かであることに気づいて恐る恐る窓と鎧戸を開けると、そこにもはや敵の姿はなく、教養教育に馴染んだ者にとって親しみのある文字を刻んだ旗がちらほらとはためいているようなものだ。これは味方なのか敵なのか、それとも敵でも味方でもない新手の軍なのか。これはまったく思いも寄らぬ状況であった。
 古典的な理念の復興か、まったく新しい主義信条の登場か。この状況がいったい何を意味するのか、正直のところ、私には分からない。ひとつだけ言えるのは、二十年、あるいはそれ以上の長きに及ぶ教養教育批判の波が収まり、「教養」あるいはそれと相性のいい概念の名で呼ぶのがもっとも相応しいものの価値を、高等教育が、さらには日本の社会が評価する気運が高まってきたということであろう。これはひとつ腰を据えて吟味してみなければならない。
 そもそも教養とは何か。新しい時代が求める教養とはどのようなものか。また、そのような教養はいかにして学び、あるいは教え、どのようなものとして身につくのか。これからそのような問題を見ていくことにする。本書が新時代の教養のあり方を考える視座を提供することができれば、これに越したる幸いはない。