はじめに
一色 清
私が大学時代を過ごしたのは一九七〇年代です。学生運動が挫折したあとでした。キャンパスには、運動の残り火としらけた空気が共存していました。
そして「何のために学ぶのか」という問いに対する学生の答えが「教養を深めるため」から「仕事に役立てるため」に移りつつある時代だったように思います。
一九八〇年代になると、「おたく」という新語が出てきます。サブカルチャーなどの「狭くて深い知識」を競う空気が漂い始め、教養主義の影が一段と薄くなっていきます。さらに大学入試の科目数の減少やバブル崩壊以降の就職氷河期の訪れがあって、学生も社会も「教養よりも実用」に走るようになりました。
でも、私は「教養、つまり幅の広い知識と関心を持っているほうが人生は豊かになる」と一貫して思っています。五〇歳を過ぎたころからは、そんな思いをすることが日々の暮らしのなかで増えました。
私の家は鎌倉に近く、時々散策に出かけます。お寺を回りながら、「歴史を知らなかったら、あまり面白くないだろうな」とか「もっと勉強していたら、もっと楽しいのに」といった思いにとらわれます。
料理も趣味です。きゅうりの塩もみをしながら、「これでしんなりするのは浸透圧で水が外に出るからだ」とわかることは楽しいことです。「料理の理」は「理科の理」でしょう。
他人の論理的で説得力に富む話を聞いていると、数学でやった証明問題を思いだします。「AはBで、BはCだから、ゆえにAはCである」というやつです。そんな話し方が身についていると、多くの人が耳を傾けてくれていいな、と思います。
いま再び「何のために学ぶのか」と問われたら、私は「人生を面白くするため」と答えたいと思います。
本書には、中島岳志、落合恵子、浜矩子、福岡伸一の各氏の授業が採録されています。お一人おひとりが、専門だけでなく大変幅の広い教養人です。一回ごとの授業でも幅の広さを感じることができますが、通して読むと、さらに多面的な「知」に触れることができると思います。人生がちょっぴり面白くなるかもしれません。