序章 未知との遭遇――ジャズが日本にやってきた

 日本にジャズが入ってきたのは大正年間の半ば、一九一〇年代後半である。
 アメリカ南部のミシシッピ川河口に近いニューオーリンズに初期形態が発生したのが二〇世紀直前。それが「ジャズ」と呼ばれるようになるのは、白人グループの第一弾「オリジナル・ディキシーランド・ジャズ・バンド(ODJB)」が結成された一九一六(大正五)年のことだった。そのわずか一、二年後の日本で、日本人がすでにそれを演奏していたとは……ラジオもレコードもなかった時代の話である。その頃の流行や社会現象の伝播速度を考えると、驚くべき早さではないか。
 やってきた回路にはおよそ三つのパターンがあった。第一が、横浜や神戸とアメリカ西海岸をつなぐ太平洋航路の客船パターン。日本郵船や東洋汽船に所属するそれらの船には、乗客の長い旅路をもてなす専属のバンドがいた。そのメンバーが到着したアメリカでジャズに触れ、楽器や譜面を持ち帰ったのが最初だった。その先導的な役割を演じたひとりが、日本初のジャズバンド(実際にはラフィングスターズが先だが短命に終わった)、チェリーランド・ダンス・オーケストラのリーダーになった井田一郎である。
 第二のパターン。同じ太平洋航路を利用したこちらは乗船客としてアメリカへ遊びに行き、その魅力にとりつかれた有閑階級の子弟や遊び人仲間だ。その典型が、自らを益田太郎冠者と呼んだ益田男爵の一家だった。中には、工学関係の留学目的で渡米してジャズを知り、二村定一の〈アラビヤの唄〉や〈あお空(私の青空)〉の訳詞を手がけて、日本型ジャズソング誕生の先駆けとなった堀内敬三のような変わり種もいた。
 器楽演奏(インスト)のジャズは、本物をナマで聴くかレコードからコピーし、さらに譜面を参考にすれば、比較的高い精度で真似られる。しかし歌が加わるとそうはいかない。原語で歌うか日本語にするかで印象がガラッと変わるし、訳詞そのものの出来不出来、米語と日本語の言語的リズムや音韻感覚の違い、言葉の置き換えにともなう視覚イメージの変容……。そんな様々な問題が微妙にからんでくるからだ。
 そうしたハードルをクリアして、日本独自のジャズ唱法を最初にものにしたのは浅草オペラの人気者になった二村定一で、それをさらなる完成に導いたのが、同じオペラ仲間でのちに「喜劇王エノケン」として有名になった榎本健一だった。ジャズソングといういいまわしには、それが単なるアメリカからの「戴きもの」ではなく、日本流にひとひねりしたスタイルだというニュアンスがある(ジャズソング自体が、この時代に日本で作られた和製英語)。
 産地直送でアメリカから直に入ってくるこの流れに対して、中国を迂回して上海経由でやってくる第三のパターンが注目されるようになるのは、大正の終わり近くになってからのこと。国際都市上海には租界と呼ばれる国別に設定された外国人居留区域があり、それぞれの繁華街には国柄を反映したクラブやダンスホールが軒をつらねていた。そこで遊んだ経験を活かした派手なステージングが日本で評判を呼んだのが、「上海山口」ことドラマーの山口豊三郎。昭和期に入るとトランペットの南里文雄が、アメリカからやってきていたテディ・ウェザフォード(ピアノ)に師事して、腕をあげた。
 その頃から、川畑文子、ベティ稲田、灰田晴彦・勝彦の兄弟といった日系二世三世や、のちにルイ・アームストロング楽団の歌手となるミッジ・ウィリアムズといったアメリカ勢が、入れ替わり立ち替わり日本に滞在してシーンをにぎわせるようになり、一九三五(昭和一〇)年前後の日本はジャズソング時代のピークを迎える。
 戦前そして戦時中に日本のジャズがたどったこうした道筋を、一九三一(昭和六)年生まれのぼくは当然知るはずがない。子どもの頃エノケンを舞台で二、三度観ているが、目にしていたのはあくまで「喜劇王」のエノケン。歌にしびれたのはその独特の歌いグセのためで、ジャズソングという認識はなかった。
 一九三一年は、アジア諸国の植民地化という野望を秘めて日本が満州事変をひき起こした年である。ぼくはその発端となった柳条湖事件の三カ月後に東京の下町で生まれた。そして小学校に入学する前年の一九三七年に日華事変が始まる。さらに小学校四年で一〇歳の誕生日をむかえた一九四一(昭和一六)年一二月八日の朝、学校へ出かけようとランドセルに手をかけた瞬間、真珠湾攻撃(日米開戦)のニュースが流れてきた。というわけで、ぼくの誕生から一〇代にいたる成長の足どりは、のちに「十五年戦争」と呼ばれるこの長期戦争の年譜と数値的にピタリ重なる。小学校を通して無欠席だった学期はゼロという虚弱体質の持ち主が、中学へ進学した一九四四(昭和一九)年、未来の将校を夢見て陸軍幼年学校を受験したのは、今にして思えば、そうした数値のマジックに運命的なものを感じたからに違いない。
 競争率一〇〇倍超と噂された難関を突破して、東京郊外の西八王子にあった東京陸軍幼年学校に入校したのが翌四五年の四月。年齢は中学二年相当の一三歳だった。その四カ月後に日本は敗戦。無条件降伏を受け容れる天皇の「玉音放送」を、ぼくは一〇日ほど前の空爆で全焼した校舎と宿舎跡に挟まれた広場で聴いていた。
 自伝を綴る目的があるわけではない。戦前からジャズを聴いてきたファンとつづく世代との間には、年齢的な差は三つ四つしかなくても、ジャズについての体験や認識の面で大きな段差があることを、ここではっきりさせておきたいのである。