人生後半をボランティアに投じた理由

堀田 僕は玄さんのような迫力はまったくないけれど(笑)、僕がボランティアの世界に入ったいきさつを話せば、検事を三〇年やってきたんですが、やっぱり虚しくなってきたというのかな。
 検事の仕事はもう大好きで、天職だという気さえしていたんだけど、検事も役人だから組織の中で出世していく仕組みになる。管理職になって、自分で直接調べたり聞いたりすることができないポストになる。
 特に僕が法律家になろうと思ったのは、汚職事件をやるために東京地検特捜部長になることが、人生の目的だったから。特捜部の副部長までにはなったけど、その後法務省の人事課長という役人のほうにまわされた。
 管理職だから車はつくし、秘書もつく。そういう意味じゃ、世間的には気分がいいわけだけど、このままいくと、いよいよ上に上がって現場から離れていくし、こんな人生でいいのかな、と。そういう思いが強くなったんですね。
 出世コースを自ら蹴るなんて、正気の沙汰じゃないって、たいていは思うね(笑)。
堀田 ボランティア活動を広める仕事をしたいと言ったら、仲間に言われましたよ。「お前、何か悪いことをしたんだろう」って(笑)。そうでなきゃ、辞めるわけがないって。
 自分で言うのも恥ずかしいのだけれど、僕は制度疲労が目だつ検察も法務省も変えなければいけないという改革派だったから、若い人たちが期待してくれていて、彼らからは「敵前逃亡だ」と詰め寄られたりもした。だから辞めるときは、惜しんではくれたのだけれど、全然誉めてくれなかった。何ということをするんだ、という空気だった。
 はははっ。リーダー失くすんやもんな。ただ、なんでボランティアなんですか?
堀田 外務省に出向して、一九七二年から七五年までの三年半、アメリカのワシントンDC郊外で暮らした、そのときの体験が大きいですね。当時と今とでは多少違いはあるかもしれないけれど、アメリカの郊外の地域社会は、すごく助け合っていて、温かいんですよ。
 僕はアメリカは差別社会、競争社会の最たる国だと思い込んでいたから、僕ら黄色人種は白人にバカにされるだろうと思っていたら、全然そんなことはなくてね。
 僕の子どもたちは英語ができないのにすぐに仲間に入れてもらえたし、買い物も「あっちの肉屋さんより、こっちの肉屋さんのほうが質が良くて、買い方もこうしたらおいしいのを買えるよ」とか、そんな日常生活から始まって、子どもが病気をしたらそれがいちばん怖いんですが「あの小児科病院は近いけれど、あそこに入ったら帰って来ない人が多いから、ちょっと遠いけれどあっちに行けよ」とかね(笑)。そうやってみんなが助けてくれる。だから安心感があって、とても暮らしやすかった。
 日本も昔はそういうつながりの暮らしがあったのだけれど、経済大国と言われるようになってどんどん冷たい社会になり、人間関係は壊れていく一方で、冷酷な少年犯罪も増えた。これはいかんぞ、と。