はじめに―ツイッターのアカウントとしての「独裁者」

 毎年、大学の新入生のクラスで最初の授業を行うとき、自己紹介がわりに「いま何にでもなれるとしたら、何がよいか」という問いの答えを理由とともに語ってもらうことにしている。
 実在の人物からアニメの登場人物までさまざまな答えがあるが、ここ数年の「不動の一位」は、「ネコ」である。理由は、「気ままだから」「ゆっくりできそうだから」「好きなように生きているから」など。そして、二位は「鳥」。理由はネコとほぼ同じ、三位以下にも「イルカ」「ペットのイヌ」「大木」「空に浮かぶ雲」など、「人でないもの」や「生きものですらないもの」が続く。
 こちらから見ると十分、気ままに楽しく生きているように見える大学生たちだが、彼らなりに疲れ、追い詰められているのだろうか。たしかに、経済的事情により、ひとり暮らしをする学生は減り、二時間以上かかっても自宅から通学する学生も増えた。大学の課題、サークル活動をこなしながら、深夜までバイトをしている学生もいる。先輩からは「就職活動で泣く」と聞かされる。テレビや新聞を見ても暗いニュースばかり、ネットではさらに気が滅入るような情報が飛び交っている。そして何より、友だちや家族との〝人間関係〟にも気をつかわなければならない……。いまどきの学生たちは、決して気ままでもなければ楽しくもないのかもしれない。
 だとしたら「ネコになりたい」という気持ちもわからないでもない、と思いながら、学生たちに次のふたつの意見を言ってみる。
「でも、ネコには〝自分という意識〟、つまり自我があるかどうかはわからないよ。あったとしても、飼い主の都合や気分でいろいろなことを決められ、自分で主体的に決めたり動いたりできる範囲は狭いと思うけれど」「それに何より、ネコは生きても二〇年くらい。寿命が人間の四分の一以下じゃない」  すると、学生たちは口をそろえてこう言うのだ。「そんなの、別にいいですよ」。
「そうか、やっぱりネコはやめだ」と思い直す学生には、会ったことがない。
 つまり、生活やお金や人間関係に追われ、つらさを抱えながら生きるいまの生活から抜け出せるなら、それと引き換えに「主体性の放棄」や「寿命の短縮」という事態を受け入れてもかまわない、ということなのかもしれない。
 こういった話から「いまどきの若者は情けない」という結論を導き出すのは簡単だが、授業やゼミで接していると、彼らは決して「情けない若者」ではない。勉強もしっかりするし、他者への思いやりもある。だとしたら、そういった将来有望な若者までが「毎日がしんどい。未来にも希望がない。ネコになったほうがまし」と思わざるをえないほど、いまの世の中の状況がよくない、と考えたほうがいいのではないだろうか。
 もちろん、現実的には人間として生まれた人が、一瞬にしてネコになることはできない。
 しかし、似た状況は考えられる。すべてを「飼い主」である誰かにまかせて、その人にすべてを決める権利をあずけるかわりに、身の安全や食べ物だけは確保してもらい、ある範囲内で何も考えずに気ままに暮らす、という状況なら、何もネコにならなくても私たちは手にすることができる。
 自らの主体を放棄し、全権を白紙委任するその人間、その「飼い主」を私たちはこうも呼ぶことができるかもしれない。そう、「独裁者」である。
 現代の「独裁者」は、ヒットラーやムッソリーニ、スターリンのように世界征服をたくらんだり、狂った野望の実現のために大量虐殺を命じたりはしない。人々に、同じ制服を着て同じ音楽を聴くように、といった自由の剥奪も行わないだろう。
 ただ、二一世紀のいま、もし「独裁者」が登場するとしたら、その人物は効率的な手段としてツイッターに着目するだろう。そして、アカウントを取得し、経済、行政、社会、教育問題から好みの食べ物やスポーツのことまでを考えて、頻繁に発信するだろう。そのメッセージを受け取った人たちは、それをそのままリツイートという機能を使って自らのアカウントから再発信し、あたかも自分が考えたかのような気分を味わうことができる。だから、白紙委任、全権委譲しているのに、支配、操縦されているとも思うことなく、「独裁者」のツイッターのアカウントに同化することにより、むしろ、自分が強くてしっかりした意見を持った人間になったようにさえ、感じることができる。
 現代の「独裁者」は、誰もが同化しやすいはっきりしたキャラクターを持っていなければならない。それは当然、強くて明るくて行動力があり、他人や他国に媚びず、しかも現実をしっかり見すえる目も持っている人、ということになるだろう。そして現代の「独裁者」は、「私のこのキャラに同化しなさい」と呼びかけることで、一瞬で私たちの中にあるもやもやした憂うつ、将来への不安などを消し去り、自信と誇りが回復した気分を味わわせてくれるに違いない。
「ネコになるしかない」と苦笑する学生たちは、自ら喜んで「独裁者」を「飼い主」として仰ぐのだろうか。それとも、ツイッターでのつぶやきを自分の手で拡散させるだけで、不安や徒労から解放され、「ネコじゃなくても大丈夫」と自信を持つことができるのだろうか。
 しかし、いずれにしても「独裁者」のもとでは、私たちは「自分で考え、自分で決める」という民主主義の基本的な権利を、丸ごと手放さなければならないのである。
 それとも、もしかしたら、「自分で考えて決める、なんてもはやたいしたことではない」と言わざるをえないほど、社会的状況、人々の心理的状況は切迫しているということなのか。
「ネコになりたいの? よし、その夢をかなえてあげましょう」
 こういう甘いささやきに、いままさにうなずこうとしている人は、どうかその前に一時間だけ時間を確保し、本書を読んでほしい。また、「独裁? とんでもない!」と最初から否定している人も、本書を読んでいま世の中では何が起きているのかを、もう少し知ってもらいたい。
 ネコになるその前に、残された時間はそれほど多くない。