◎誰にも見えない「異なる世界」の存在
 体験された内容と実際とが異なることは、総称して錯覚(illusion)と呼ばれる。また、視覚に関する錯覚は錯視(visual illusion)、事柄についての認識が客観的事実と異なることを錯誤(mistake)と呼ぶ。
 実は、いろいろ測定すると、多くの場合、私たちが知覚を通して体験している内容は、観察されている対象の物理的特性とはさまざまな点で異なっている。
 例えば、知覚される大きさ、形状、表面の色彩、その対象から自分までの距離など、見える内容と観察対象の実際の特性とは大抵の場合、何らかの不一致がある。さらに、その対象が動いていたり時間の中で形状や色彩、位置などが変化していたりする場合にも、その時々の状態の知覚内容はその対象の実際の状態と対応していないことが多い。
 現に見たり聞いたりしているこの世界に関して、私たちが体験していることがその実際とは違っていて、世界そのものの特性について、私たちには決して直接的に体験することはできない「私たちが経験しているものとは異なる世界」が存在するということを指摘されると、読者は気味悪く感じるかもしれない。
 私たちが見たり聞いたりしている事柄が実際の世界の特性とは異なるということは、気味が悪いということにとどまらず、とても困ったことでもあるだろう。なぜなら、このことは、私たちは、見たり聞いたり、という自分自身の知覚に従っていては、事柄の特性について誤ってしまうということを意味しているのだから。
 ただし、体験している事柄が実際と違うとしても、それは無秩序に異なるということではない。私たちの知覚の特性は、長い進化を経て獲得してきたものである。私たちが体験している事柄の内容が観察対象の実際の特性からズレているとはいえ、そのズレ方には何らかの規則性があることが多い。また、どうやらそのズレ方はそれなりの合理性にもとづいている。
 世界の実際の特性を知ることのできない、実際の特性とは異なる知覚体験を生じさせてしまうような私たちの知覚の仕組みは、この地上の自然環境の中で生き残っていく上では適切な情報処理を適度なスピードで行うために有益なものとも言える。さまざまな見誤り、見落としを起してしまうような知覚系の仕組みは、この環境の中で適切な情報処理を行うために長い時間にわたる進化の過程で形成されたものである。
 しかも、体験していることが実際と異なるということは悪いことばかりでない。実は、私たちの知覚の特性や限界を知ることで、逆にそれを利用して生活の質を改善することができる。そして、実際にそのような試みの多くが成功をおさめている。そうした成功事例のいくつかは、現代人の生活の中に多く入り込んでおり、現代の日本で、そうした試みの恩恵を享受した経験のない人を探し出すことはとても難しい。
 ただし、見誤り、見落とし、思い違いが致命的な問題に発展する場合がないわけではない。むしろ、近年になってその危険性は高まっている。そうした問題と、それへの対処法を解説することも本書の目的である。

◎錯覚の研究は何の役に立つのか
 本書では、私たち自身の知覚や認知の特性や、錯覚、錯視の成立過程の特性を紹介するとともに、そうした特性の理解が持つ意義、可能性についても解説する。どのような意義や可能性があるのかについて簡単に列挙するとしたら、まずは第一に、それが私たち自身の理解につながるということだろう。
 私たちがどのように世界と相互作用しつつどのように情報を取り入れ、世界と対峙しているのか、私たちの知覚や認知における体験の成立過程を調べることで多くの情報を得ることができる。
 錯覚研究の第二の意義は適応的意義である。
 私たちは世界の本当の特性を知覚によって正確に知ることができない。とすれば、私たちの知覚内容が環境の実際の特性からどのように、どの程度乖離しているのかを知ることから、生活の中に潜む多くの潜在的危険について備え、それに対処することができる。知覚や錯覚の特性を知ることにより、致命的な危険を回避しやすくなることだろう。
 錯覚研究の第三の意義は実用的意義である。
 錯覚の特性を調べることを通して私たち自身の知覚の特性を利用できる。知覚している内容が観察されている対象の実際の特性と乖離しているということ、つまりは錯覚があるということは、翻って考えてみると、実際とは異なる事柄を体験できるということでもある。簡単な具体例を挙げれば、テレビやパーソナルコンピューターのディスプレーにおける運動や色彩の表示は、実は錯視を利用しているのである。