プロローグ

 それは奇妙な感覚だった。
 今まで経験したことのない違和感に包まれて、戸惑い、心臓が圧迫されるような息苦しさを覚えた。
 渋谷のハチ公前スクランブル交差点を渡っている最中に、それは起こった。
 すれ違う女性の顔ばかりでなく、姿も見られない。
 女性、というだけで視界に入るのがつらくなり、思わず目を伏せた。足下だけを見て、なんとか交差点を渡りきった。
 それは女性に対する嫌悪感とは違っていた。むしろ、女性から「視線」を受けることの予期不安から、「自己嫌悪」、いや「自己否定感」に強く苛まれた。

 私は一二年近く、うつを患っていた。ただ、抗うつ薬はもう一年近く飲んでいない。長らくうつについて取材を行い、いくつも記事や書籍を書いた経験があり、抗うつ薬の効果について疑問を抱いていたのは確かだ。しかし、それだけではない。私はもはや抗うつ薬がなくても、日常生活を乗り切る「知恵」を、仕事を通じて学習したとおぼろげに感じていた。それについては他の自著で詳細に書いているのでここでは触れないが、いわば私は「うつから脱却した」と自分自身に言い聞かせていた。
 そんな安息気分も束の間、折からの出版不況で仕事が激減した。私は無名の「末端文章プロレタリアート」に過ぎない。当然ながら、収入が急カーブを描いて低迷したため、それまで住んでいた借家の家賃が払えなくなった。二年近く滞納を繰り返した後、とうとう、世知辛いご時世には珍しく温情に満ちた不動産業者ですら、「滞納分はチャラにするから、家を明け渡してくれ」と最後通牒を言い渡してきた。
 一週間後、夜になって横になると「パニック発作」に襲われた。この「パニック発作」は神経症の一種とされているが、具体的な症状は、酸欠のように呼吸ができない苦しさ、眼前の光景が渦巻きのように揺れ動く心許なさ、そして心臓を誰かがつかんでねじっているような痛み……といったものである。このまま死んでしまうのではないか、という不安感が強くなり、眠ることもできない。そのような状態では仕事もできず、昼間は睡眠不足でフラフラとしており、それでも生理現象として睡魔に誘われてうたた寝をすると、また発作が起きた。
 ただし、この「パニック発作」だけで死ぬことはない、と精神医学的には解説されている。「パニック発作」についてはより詳しい専門書があるので、それを参照していただきたい。とにかく、原因ははっきりしていた。過度のストレスである。発作が起きてすぐ、以前に取材した精神科医に現状を報告した際、抗うつ薬を急にやめた反作用ではないかと指摘されたが、それについてはEBM(医学的根拠となるデータ)がないので、ここではあえて言及しない。
 こうした状態で、夜逃げ同然に狭いアパートへの引っ越しと借家の後片付け(家族五人が一〇年近く暮らしていると、こんなにもゴミが出るものかと嘆息した)に追われた。最後のゴミを出し切り、家の鍵を郵便受けに入れて、無人になったかつての「我が家」を振り返って見たとき、私はエポケー(思考停止)になっていた。
 喪失感。そして、自分の無力感。家を捨てるとはこういうことかと、小説でしか読んだことのない寂寥たる心理を痛感した。
 仕事は相変わらず少ない。ましてや、私のように中立性を旨とした調査報道に徹したい、という思いで取材して書くようなジャーナリストだと、たまに仕事が入っても原稿料の収入より個人負担の取材費が上回るという、収支が合わないことの繰り返しだった。
 ある意味、生きるのに必死だった。家族も養わないといけない。そうした切迫感に直面したことで、つらかった「パニック発作」も次第に頻度が減ってきた。
 そうしたときに、「見られない」という感覚に陥ってしまった。