約四〇日間で誤差が二分以内ということは、一日あたりは三秒以内でなくてはならない。しかも、海は荒れることがある。これは、一八世紀初頭の当時としては、想像を絶する厳しい基準であった。
ニュートンは証言に立ち、このような正確な時計の製作は多分無理だろうといい、むしろ、月の運行計測などの天文学による方法に期待をよせたが、それでも障害は多過ぎた。その当時既に、ニュートンの万有引力の法則は発表されてしばらくたってはいたが、まだ天体の運動の詳細はデータが不足していた。ましてや月の動きの詳細についてはわからないことばかりだったのである。
ジョン・ハリソンのクロノメーターの開発と苦難
航海において使われる正確な時計は、当時、クロノメーターと呼ばれた。クロノメーターの目的は、基準地の時刻を航海中そのまま正確に保ちながら持ち運ぶということである。この方法については、経度法ができる以前、振り子時計を発明したホイヘンスが、海上でも使えるかどうか実験をした。その結果は、天気が良くて海がおだやかであれば、経度の測定に役立つが、嵐に遭遇などして船が激しく揺れると振り子の振幅が乱れて使い物にならない、ということだった。そこでしばらく放置されていた。
正確な時刻を保ちながら振り子時計を持ち歩くことは、陸上でも困難なことである。ところが、経度法の賞金のことを伝え聞いて、これにたった一人で立ち向かったのが、イギリス人のジョン・ハリソンという元大工の時計職人だった。彼の試みは、最初あまりにも無謀に見えたので、まわりの人々から魔法に取り付かれた男と批判もされたという。それでも、ハリソンは、果敢に挑戦した。
ハリソンは、一七三〇年に時計の製作にとりかかり、一七三五年に最初のクロノメーターH─1を完成させ、実験した後、経度評議員会に提出した。
評価のための航海試験は、海軍の判断で西インド諸島ではなく、ポルトガルのリスボンへの往復で行われた。旅は嵐のためリスボンの滞在も含めて合計四〇日強となったが、誤差は二分を超えることはなかった。そこで、二万ポンドの賞金が得られるであろうと思われた。しかし、あろうことか、ハリソンは、H─1の性能に満足せず、資金の援助を条件に、さらに優れた時計を作ることを評議員会に提案した。そして、評議員会から資金を得つつ一七四一年にH─2、一七五七年にH─3を製作し、さらに一七五九年にH─4を完成させた。彼はそのとき既に六六歳になっていた。