まえがき ─自分の未来はどうなの?

 私は、今の世の中というか社会というか世界というか、そういうもののあり方がよく分かりません。「よく分からない」と思っているのは、多分私一人ではないはずですが、「ま、よく分かんないけどさ、関係ないからいいじゃん」でやりすごしてしまう場合が、私なんかは多々あります。それですんでしまえばいいのですが、本当にそれですんでしまえるのか。
「今の世の中とか社会とか世界とか、そういうものがよく分からない」とか「全然分からない」と言っても結構平気だったりするのは、そうは言いつつも、そう言う人間つまり私が、「なんとなく分かる部分もあるから、それでいいか」と思っているからです。古くなった電化製品のように、付随する種々の機能はバカになっているにもかかわらず、主たる機能はかろうじて大丈夫なので、「まァ、いいか」と思えるのです。壊れかけたテレビとかラジオでも、とりあえず叩いてみるとなんとか機能するというようなもんです。
 私の比喩もひどいもので、今時「叩けばなんとか機能する」というような電化製品をいつまでも使っている人はいますまい。そんなもの、捨てちゃうというか、リサイクルに出しちゃうというか。でも、人間の頭というのは、「まだ使える古い機械」みたいなものです。「今のところ大丈夫」で、なんとなくもたせてしまいます。だから、「今の世の中というか社会というか世界というか、そういうものがよく分からない」と思っても、「まァ、いいか」ですんでしまうのですが、これが「今の世の中というか社会というか世界というか、そういうものがどうなるのかがよく分からない」になると、話は別です。これは、「今」から一歩足を踏み出した未来に関する話で「今はなんとかなっているからいいけど、この先はどうするの?」という決断を要求される話にもなってくるからです。
「この先をどうするのか、その決断をしろ」と言われた途端、「どうしたらいいのか分からない」という態度保留は増加します。その典型となるのが「TPP(環太平洋パートナーシップ協定)に参加するための交渉に参加するか否か」です。賛成と反対が拮抗して、賛成派は「絶対賛成!」と言い、反対派は「絶対反対!」と言いますが、それ以外の人達に「あなたはどうですか?」と尋ねれば、「分からない」という答が圧倒的でしょう。
 賛成派は、自分達の賛成出来るところだけつかまえて「賛成」と言い、反対派は自分達の容認出来ないところをとらえて「反対」と言う。ノンキに構えれば「いいところもあるし、悪いところもある」ですが、賛成派と反対派両方の主張を重ね合わせると、「その交渉にはなんだかわけの分からない、まだ説明されていない部分が一杯ありそうだ」という気になって「分からない」の態度保留が増してしまうのです。
「今のまま」なら、まァなんとかなるような気がします。でも時間は一方向に進んで行って、「なんとかなっている」の状況から早晩足を踏み出さなければならないことだけは確実です。その目の前に選択肢が出されて、「選択するかしないか決めて下さい」と言われます。だから、その選択肢をよく見定めようとはするけれど、よく分からない。分からないのは、理解力のないこっちの頭のせいかもしれないが、説明の仕方が曖昧だから理解しにくいということもある。そしてそうなって目を凝らすと、「選択肢を出す方だって、これが最良の選択肢だとは思っていないだろう」ということが、ぼんやりと見えて来る。
「先が見通せないから選択という決断が出来ない」ということがあって、もう一つ、「先が見通せないから、十分な選択肢が設定出来ない」ということもあります。私がここで言いたいのは、「分からないことの仕組」が複雑になっていて、「どう分からないのか」さえもがよく分からないのではないかということです。
 私はこれでも世の中のことをアレコレと考えて、「世の中がそっちに行くのならこっちはこうしよう」というように、世の中のあり方を前提にして自分のあり方を決めています。私のあり方は「世の中のあり方に従う」ではなくて、おおむね「結果として世の中のあり方に逆らってしまう」なのですが、それであっても、世の中というか社会というか世界という、そういうもののあり方が分からなくなると、とても困ります。「自分は自分」で、世の中のあり方から距離を置いていても、その世の中のあり方がなんだか分からなくなってしまうと、距離の取りようが分からなくなってしまうからです。
 その方向がどうであれ、「自分のあり方は世の中に合わせて決める」なんてことを言うと、「なんという自主性のないことよ」と言われてしまうのでしょうが、人が世の中や種々の人達との関わりの中で生きているものである以上、「世の中のあり方を無視して気ままに生きる」は、期間限定で成り立つ一時期なものにしかならないはずです。
 私はエゴイストなので、本当のことを言えば、世の中とか社会とか世界とかそういうもののことは、どうでもいいのです。でも、「どうでもいい」で放っておくと、自分の足下が崩れてしまうのです。
「自分が明確だから、世の中のことなんかどうでもいい」と言える人は、自分を明確にするその前の段階で、「世の中がどうなっているのか」という十分な学習をしてしまっているのです。そこで「分かった」と思うから、「世の中のことなんか関係なく自分は自分」ということにもなるのですが、それはつまり、充電式の電化製品と同じです。ちゃんと充電してあれば機能する。機能すれば電力が消費されて、いずれまた充電する必要が生じる。そのまま充電をしなかったら、その電化製品は機能しなくなるというだけの話です。だから、「分かんない状況だらけだから、分かるしかないな。充電するしかないな」とは思うのですが、現在の困難は、その充電のための電源がどこにあるのかがよく分からないというところにあるのだと思います。
 私は二〇〇一年に書いた『「わからない」という方法』(集英社新書)の中で、「二十世紀は理論の時代だったが、それはもう終わってしまった。なぜかと言うと、現実に適用される新しい理論が生まれなくなっているから」というようなことを言っているのですが、「充電したいけど、どこにその電源があるのか分からない」というのも、「もう理論の時代は終わってしまった」ということに由来する現象の一つのはずです。
 今更「理論の時代は終わった」などと言っても、なんの役にも立ちません。現実は分からないことだらけで、判断決定の出来にくいことだらけです。黙っていてもそれは消えてくれないので、及ばずと言えども、なんとかする努力ぐらいはしなければならないでしょう。