まえがき
脳の働きを一言で表せば、「学習」するということである。脳は、決して完成しない。その学習のプロセスは終わりなき「オープン・エンド」な「旅」であり、一つの課題をクリアしたと思うと、必ず次の目標が姿を現す。
完成型がないからこそ、人生の楽しみがある。人間は、変わることに最大の喜びを感じる存在である。それでいて、変わることは不安で時に恐ろしいことでもある。脳の宿命が、学習することであり、変わることである以上、自分が更新されることに対する不安は、ぜひとも乗り越えなければいけない障壁の一つであろう。
「学習」と言えば、誤りが修正され、次第に「正解」に向けて成績が上がっていくプロセスだと思いがちである。しかし、学習の本体は、実は「挑戦」である。それは、常に未踏峰へのアタックのようなわかりやすいかたちをとるとは限らない。むしろ、挑戦は、私たちが気付かないうちに、日常の中に忍び込んでいる。文明から離れた山男だけが、あるいはベンチャー企業の経営者だけが「挑戦」を独占しているのではない。ごく普通の、私たちの日常の中に、「挑戦」は遍在しているのだ。
「挑戦」とは、文脈を乗り越えていくことである。「大学入試」や「語学検定」といった特定の「文脈」の中で学習し、次第に正答率を上げていくことも、確かに一つの「挑戦」ではある。しかし、それは生という現場が私たちに提供する「挑戦」の本来の大らかさからは遠い。文脈にとどまっていては、生の本来の挑戦はできない。文脈を乗り越えること、あるいは、そもそも文脈さえもがないような状況に身をさらし、その中で踊り続けることが、生の本来の挑戦である。
誰も見ていないところで、誰も見ていないからこそ、踊り続けるのだ。
私たちは、困難な時代に生きている。グローバル化に伴うさまざまな混乱は、世界各地に共通のことではあるが、私たち日本人は、そのことを、より一層、骨身にしみて感じているのではないか。
かつて、日本は「課題先進国」と言われた。高齢化や、経済の停滞など、世界のさまざまな国がこれから直面するであろう課題を、日本人が真っ先に受け止めていると認識されていたからである。
ところが、日本を取り巻く状況は、「課題先進国」というような生やさしいものではなくなってきた。端的に言えば、カオス。「課題先進国」というような徴表が示唆するような、線形で穏やかな変化ではなく、待ったなしの暴風雨のような状況に、私たちは置かれてしまっている。そして、鈍感だった「ゆでガエル」たちもまた、自分たちの周囲の水温がどうやら上がってきているらしいことに、そろそろ気づいているのだ。
だからこそ、私たちは、「挑戦」を始めなければならない。今までの日本のように、大学入試や、語学検定や、あるいは新卒一括採用のように、文脈が定められた中で線形の穏やかなチャレンジをするのではなく、むしろ文脈そのものから飛び出さなければならない。そのことは、過去、長い間言われてきたし、私自身もそのことに何度も言及してきたが、昨今の日本の状況は、いよいよその課題が待ったなしになったということを示している。