危機は、時、場所、人を選ばず、ふいにやってきます。
 二〇一一年三月十一日十四時四十六分、突然、これまで経験したことのない激しい揺れに襲われました。本棚からファイルが次々に落ちてくるのを、ただ為す術もなく見守りながら、危機と隣り合わせに生きていることを痛感しました。
 震災から四日後、かねてより予定していたエルサレムの聖地巡礼に旅立ったのですが、彼の地でも日本の震災は報道されており、各国の巡礼者が、「日本人のためにお祈りをします」と口々に言ってくれました。私は、イエズスが歩んだエルサレムの十字架の道を歩みながら、イエズスの受難の死と日本の苦しみを重ね合わせ、深く祈りました。
 あの震災以来、日本人の多くの死生観は一変したと思います。死をタブー視したり、無関心を装うこともなく、すぐそばにあるものとして、考えざるを得なくなったのです。
 私は日本で、三十年あまり、「死生学」を教えてきました。死はギリシア語で「thanatos」、死(タナトス)についての学問(ロゴス)という意味で、この研究分野をタナトロジー(thanatology)と言います。直訳すれば死学となるのですが、私は死について学ぶことは、いかに生きるかを問うことになると思うので「死生学」と翻訳しています。
 ドイツの有名な哲学者マルティン・ハイデガーは、人間を「死への存在(Sein zum Tode)」と定義しましたが、その言葉通り、私たちは誕生と同時に死に向かって歩み始める宿命を背負っています。誰も避けることのできない死という現実を、哲学、倫理学、教育学、歴史学、医学、法学、芸術などあらゆる分野から研究するのが死生学です。
 死について考えれば考えるほど、生きることについても深く考えるようになります。多くの方々の突然の死を体験した私たちは、数多の尊い死を心にとめて、生きがいのある人生とは何か、各々が自分に問い、生活の質を見直し、新しい生き方を模索していかなくてはならないでしょう。

   この日本の危機に、簡単な問題解決はあり得ません。
 しかし、日本語の「危機」の「機」には、「何かするのにちょうどいい時」という意味があります。英語の「クライシス(crisis)」やドイツ語の「クリーゼ(Krise)」には、このニュアンスが含まれていません。日本人には、どんな危機をも積極的な意味を持って迎え入れ、弱点を強みに変える能力が、生来備わっているのではないかと思うのです。
 危機の渦中に模範的な態度を示した日本人に、世界中の人々が称讃を送りました。世界の人々は、復興に向けて歩み続ける日本に新たなる積極的な姿を発見し、この悲劇をどう生き抜いていくのか、期待をこめて見守っています。
 危機をチャンスとして受け取れば、人間の成長と発展のきっかけになり得ます。そのためには、これまでの価値観の見直しと再評価が必要です。私たち一人ひとりがその努力を始めれば、日本は世界の模範となる新しい文化を創造し、危機を乗り切る知恵と勇気を、世界に向けて発信していくことができましょう。
 この本で紹介する言葉が、そのための気づきの一助となれば幸いです。