この旅は——考えてみれば、たいていの旅はそうだろうけれど——ごくなにげなく始まった。そのときには気づかなかったが、鴨緑江への道の第一歩をわたしはちょうど一年前に踏みだした。それは、あまり順調とはいえないある日、わたしの住んでいるオーストラリア、キャンベラの街外れの裏通りでのことだった。
 わたしはいつものことながら時間に遅れていた。別の場所でおこなわれたある会議から帰宅したところだった。飛行機は遅れたし、暑くて、機嫌が悪かった。荷物を置くとすぐに、次の会議に必要な書類を手に大学に向かった。一月で、オーストラリアでは真夏。車の中はさながらオーブンのよう。それでも、助手席に置いた書類の束の一番上の議事スケジュールにちらっと目をやって確認すると、思いがけずほんのすこし余裕があるではないか。三時に始まると思っていた会議は、じつは三時半まで始まらない。貴重な三〇分ができた。
 大通りに車を走らせながら頭のなかで計算して、ちょっとした楽しみのために割く時間がぎりぎりある、という結論をだした。そこで、信号にぶつかる前に曲がって、裏通りに入った。片側に巨大なスーパーマーケットがあって、反対側には救世軍の慈善ショップ。うらぶれたウィンドウにカクテルドレスや見捨てられたおもちゃなどが並んでいる。それから、ある小路に車を乗り入れると、飲茶の店の前に駐車して、その隣の店のスイングドアをさっとくぐった。
 すると、そこはまったくの別世界。
 涼しい。光の質が違う。臙脂色の壁にしつらえられたいくつもの棚に、古い本や新しい本がびっしりと並んでいる。カウンターの後ろに、ちょっと色褪せた和服が何着か飾ってある。店の中央にあるガラスケースのなかでは、大判の古地図帖がインド洋のページを開けて〝既知の世界〟のすみで跳ねる海獣たちを見せている。ここはわたしの大好きな書店。どの棚も旧知の友人のようだ。どの棚にハックルートの航海記があって、どの棚に一九世紀日本についてのラフカディオ・ハーンの深い考察が、どの棚にページの端を折って印をつけたラダックの野生植物についての本が、それぞれあるか熟知している。もう何度ここを訪れ、死ぬまで買えないだろうインドの細密画を見つめ、セピア色の絵葉書の山(バタヴィア、シムラー、ポート・アーサー……)をかきまわしたことか。
 でも今はたった三〇分。あれこれ見てまわる余裕はない。オンライン・カタログで見つけて予約しておいた本を一冊うけとるだけ。The Face of Manchuria, Korea and Russian Turke-stan(満州、朝鮮、ロシア領トルキスタンの顔)と題されたその本は、金文字の背に、厚い紙の小口をペーパーナイフで切った、深緑色の書物だった。表紙には、満州の衣装と思われる(あとでわたしの勘違いとわかったが)奇妙な服を着た小さな男の姿が型押しされている。わたしはざっとページを繰って、E. G. Kempという聞いたことのない著者名や、「三人の姉たちに」という献辞、そして各章の見出しに連——のように並ぶ地名を眺めた——Hulan(呼蘭)、Liao Yang(遼陽)、the Thousand Peaks(千山)、Pyong Yang(平壌)、Seoul(ソウル)、Fusan(釜山)、the Diamond Mountains(金剛山)……。
 モノクロや色刷りの挿絵もついている。わたしはページをめくって〝遼陽の朝鮮門〟と題される一枚に目をとめた。一条の光が幅広いアーチ門を照らしている。朝鮮の使節が、中国の皇都北京への進貢の旅の途中、これをくぐったのだった。それから、〝Devil Posts〟(チャンスン)と題される小さい美しいペン画や、千山にある寺の水彩画、殺害された閔妃の墓を描いた白黒の絵などを見た。
 序文によると、著者(E・G・ケンプなる人物が男なのか女なのかまだわからなかった)は「友人のミス・マクドゥーガル」とともに一九一〇年二月一日に出立し、シベリア横断鉄道で満州と朝鮮を旅してまわり、中央アジア経由で帰国した。中国国境地帯の命運と、その命運が世界の先行きに及ぼす影響についての懸念が動機となっての旅だった。

 ヨーロッパをはじめとする列強は、(義和団事件後に)中国政府から獲得する商業的・政治的利益の可能性をめぐって口論してきたが、一定のところまで引き下がった。それでも、獲物から引き離されて唸る犬のようにいまだにその貪欲な目をじっと凝らしているなかで、ロシアと日本が着実に、しかし密やかに、中国国境地帯における支配力を強めている。これら国境地帯とは満州と朝鮮であり、この方面にこそ新たな発展が期待される。

 E・G・ケンプは、これら国境地帯は重大な変化に直面しており、この変化には世界全体を揺るがすほどの力がある、と感じていた。なぜなら、その一触即発の状況に最近になって新たな要因が加わったからである。この地域への日本の進出である。「その進出のもっとも新しい一歩は、満州への幹線道たる朝鮮の併合である」  序文の日付は一九一〇年八月二六日。そのちょうど四日前、朝鮮は日本の植民地になっていた。
 E・G・ケンプについてわたしはなにも知らなかったし、この人が旅の道連れにしたいような人なのかどうか見当もつかなかったが、序文のことばの奇妙な偶然はこだまとなって心に残った。
 ケンプが旅した地域は、その一世紀後の今、再びきわめて重大な変化に直面しているように思える。二一世紀初頭の一〇年間における中国の擡頭が、この地域の力関係、さらにはグローバルな力関係において、既定の事実とされてきた事ごとをひっくりかえしつつある。世界が経済危機に直面するなか、中国はグローバル資本主義の未来のカギをますますしっかり握るようになった。しかし、前世紀の初頭に日本が掌中に収めた力が国際不安をかきたてたのとまったく同じように、今世紀の初頭における中国の自己主張は、近隣諸国や地域外の広い世界から、賞賛と不安のいりまじった、似たような反応を喚起している。
 しかし、併合から一世紀後の現在、とりわけ不安定なのが朝鮮半島の命運である。朝鮮はかつて冷戦時代に引かれた国境線によって今もって分割され、六〇年間続いてきた軍事対立のなかで理論的にはいまだ戦争状態にある。そして朝鮮は、近代の歴史を通して一貫して、中国、日本、ロシアの関係の支点となってきた。日清戦争(一八九四─九五)と日露戦争(一九〇四─〇五)はどちらも朝鮮半島の支配権をめぐる戦いだった。日本は、平壌と鴨緑江での戦いで勝利したことで、二〇世紀北東アジアにおける優勢を確実にした。そして、その日本が朝鮮半島を併合したことは、世界の目にその優勢の誇示と映ったのだった。
 今日、朝鮮半島はこの地域でもっとも剣吞な火種であり、ひいては、世界でもっとも危険な火種のひとつになっている。冷戦の硬い破片はいまだ溶解しないまま、ふたたびこの地域を引き裂こうとしている。この緊張状態は、平和的な結果に終わろうと、暴力沙汰に発展しようと、東アジア全体の力の均衡を決定的にくつがえし、将来の安定と繁栄を決定づける力を含んでいた。
 朝鮮併合の瞬間に満州と朝鮮を通過したケンプとマクドゥーガルの足どりを追って、この地域でふたりが見た風景と今の姿とを比較することができたら、もしかしたら、北東アジアの現在のダイナミズムと一触即発の危なっかしさの根源をいくつかでも掘りおこすことができるかもしれない。経済的急発展と絶望的貧困とが混じりあう驚くべき状況の今、ふたりが遭遇した満州と朝鮮の痕跡はいくらかでも残っているだろうか、遼陽の朝鮮門はまだあるのだろうか、とわたしは思った。ケンプが中国の千山で描いた寺は、革命と文化大革命によってきれいさっぱり消されてはいないだろうか? そして、金剛山は? 信じられないような高みにいにしえの寺を置いたあの金剛山は、いまは朝鮮半島を分断する線の北側になっているのだが……。わたしもケンプのように「この国が今あるありのままを見たい」と強く思った。
 本を小脇にかかえて急ぎ足で店を出るころには——三時半の会議にはとっくに間に合いそうもなかった——わたしはすっかりその気になっていた。車を回転させて、ほこりっぽい夏の暑さにあえぐキャンベラの大通りに乗り入れながら、わたしはすでに鴨緑江に向かっていて、その先にそびえる金剛山を夢みていた。