都市と時代小説
佐高 時代小説というジャンルの中で、私がとりわけ愛読してきたのは池波正太郎と藤沢周平です。江戸研究が専門の田中さんにとって、池波正太郎という作家はどんな存在なのでしょう?
田中 まるで江戸にいるかのような臨場感かしらね。たとえば『鬼平犯科帳』を読んでいると、長谷川平蔵(鬼平)と一緒に江戸の町を歩いているような気持ちになるんですよ。鬼平が立ち寄った店や会話を交わした人たちが細部まで具体的に書き込まれているから、目の前に浮かぶようです。池波正太郎の想像力の中で遊ぶことができるということでしょうね。
佐高 時代小説というものは、勝者が書く正史とは違います。敗者にスポットを当てた歴史だと言ってもいいかもしれません。ですから、時代小説大衆小説もそうですがには、ある種の無念、庶民の無念が描かれることになります。その無念を読むことが、時代小説を読む大きな意味だと思っています。それを書いた代表格が池波正太郎の師匠、長谷川伸でした。ただ、池波さんの時代小説に描かれる庶民の姿はもっとひょうひょうとしたものですね。
田中 肩に力が入っていませんよね。有名な実在の人物はいろいろ出て来るけれど、彼らが人生の成功者というわけではないし、誰ひとり偉人は登場してきません。描かれる庶民も、それぞれに不幸を背負っていたりはするものの、皆どこかに覚悟があって、敗者の無念や恨みといったものはありません。池波作品の登場人物は江戸の市井に生きた人たち、普通にそのへんにいた人たちなのです。『鬼平犯科帳』の長谷川平蔵も火付盗賊改方の長官という役人として、毎日普通に仕事をしているだけです。江戸時代の日常が淡々と書かれている……。
佐高 確かに池波さんの作品は重くありませんね。
田中 鬼平の時代はもう江戸時代が始まってから二〇〇年近くたつわけで、「もはや戦後ではない」んです。戦さがないというだけでなく、戦国時代の武士の戦いの精神や男のプライドなどという無用なものはない時代なんですね。男たちが戦っていなかったんです。
佐高 ある意味、今の時代とも似ていますね。
田中 『鬼平犯科帳』『剣客商売』『仕掛人・藤枝梅安』、代表的な三大シリーズは、どれも舞台が一八世紀後半です。男が戦っていない時代ということが作品に軽快さをもたらしているのかもしれません。
佐高 ということは武士が力を失っている。主役ではないんですね。
田中 軽快さのもうひとつの理由は都市的ということだと思います。池波正太郎は生まれも育ちも東京、浅草界隈で育ったというのも、作品の性質に大きな影響を与えていると思います。
佐高 『義民が駆ける』といった作品もある藤沢周平が農民だとすると、池波正太郎はきっと町人ですね。面目とかにこだわらない生きかたがそう思わせます。司馬太郎は町人の中でも商人でしょうか。
田中 池波さんはまさに町人的です。書いたものに広く受け入れられる浸透力があるのも、町人的だからなのだと思います。池波さんが描いた軽やかな生活者としての町人像に、読者は共感するし、テレビドラマ化にも向いているんでしょうね。落語や芝居に仕立てることもできるし、漫画にもできる。ただし、大河ドラマにだけは向かない。そこがいいんだけれど。
佐高 確かにそうですね。一度、読んでストーリーを知っているのに何度も読みたくなるところは、落語や芝居と似ています。藤沢周平は一回読めばいいという感じですが……。また読みたくなるというのも、池波正太郎の作品の大きな特徴に挙げていいでしょう。
田中 昔の恋人や友だちに会いに行くような気分、ですね。
佐高 落語や演劇にも共通する軽妙なエンターテインメント性を持ちながら、生きかた、人としての筋の通しかたが書かれている。
田中 淡々とした筆致で描かれているとしても、その日常からあふれてくる人びとの機微はしっかり描かれています。
佐高 その雰囲気は今、なくなってしまったものなのかもしれない。それをわれわれは池波作品で読んでいるんですね。
しかし、その町の一角に立って、
(すでに消滅したものはなんだろうか?)
を考えるとき、先ず、私は下町から〔物売り〕の声が消えたことに思いおよばずにはいられないのだ。
私が子供のころには、金魚売り、下駄の歯入れや、玄米パン売り、竿竹売り、蟹売り……。(『青春忘れもの』新潮文庫)