中国は世界経済の王様になれるのか
今、我々はグローバル時代といわれる時代状況の中にいる。そして、このグローバル時代を考え、そして語るにあたっては、中国の存在を考え、語らないわけにはいかない。それはなぜなのか。中国が巨大で、その経済的躍進ぶりが凄まじいからだといえば、もとより、その通りだ。だが、それだけなのか。中国がかくも目覚ましい勢いでグローバル時代の舞台中央に躍り出ているのは、中国が中国だからなのか。それとも、中国が中国であるにもかかわらず、グローバル時代が情け容赦なく中国をその位置に引っぱり出しているのか。この主役指名は当然の成り行きなのか、伸るか反るかの大抜擢なのか。そもそも、中国は本当にグローバル時代の主人公であるのか。
この論考を始めるにあたって、以上のようなことが頭の中を行き交っている。オーデンは、草葉の陰で現状にさぞや仰天していることだろう。物言えば唇寒しと、舌打ちをしているに違いない。そのような今日の中国に目を向ければ、グローバル時代の実像が見えてくるのではないか。そんな思いを抱いて、この論考に挑もうとしている。
筆者は中国経済の専門家ではない。中国事情に関して造詣が深いわけでもない。したがって、ここで中国経済論を語ろうとしているわけではない。そこに筆者の役割があるのではないと思う。
ここでやろうとしているのは、このいわば「チャイナ・シンドローム」の中から、グローバル時代を読み取る試みだ。中国とアフリカの出会いを促している地球経済的力学とは、いかなるものなのか。もしも、グローバル時代が到来していなければ、中国とアフリカは出会ったのか、出会わなかったのか。
要は、中国を手掛かりとする視点から、グローバル時代の真相に迫ることができないかと考えているわけである。
そのような次第で、本書では、中国を入口に、地球経済の今とその今後の成り行きに思いを馳せるやり方をとっていきたい。グローバル化の経済力学は、情け容赦なく我々の日常に踏み込んで来る。実に様々な場面にグローバル化の縮図が見られる。その典型的な一つが今の中国の姿だ。そこに視点を定めてみることで、グローバル化の力学を解析し、二一世紀という時代の特性を考えてみたいのである。
つくづく思うに、我々はまだまだ二一世紀との付き合い方を真に体得していない。折に触れてその思いを強くする。この我々の要領の悪さが、我々が棲息しているこのグローバル・ジャングルという場所を、ことさらに、いたずらに棲みがたいものにしていると思えてならない。手遅れとならないうちに、グローバル・ジャングルの正しい棲み方を突き止めたいものだ。そのための一つの手掛かりとして、時代の申し子的存在感を強める中国を考えていきたいわけである。
実をいえば、中国が本当に時代の申し子であるのかどうかも、筆者にはよく解らない。一見すればまことにそうなのだが、少し立ち入って考えると、色々な疑問が湧いてくる。
思えば、中国は著しく後進性を抱えたヒーローだ。多くの面で遅れをとったまま、世界のヒーローとしてスポットを浴びている。しかし、古来、世界の覇権を握る者は、圧倒的に他に先んじていたものだった。先進性があるからヒーローたりえた。ローマ帝国しかり、大英帝国しかりである。
もっとも、これがアメリカまで来ると構図は少々異なってくる。アメリカは第一次大戦前の世界を支配した欧州勢の前では、明らかに新参者だった。先進性というよりは、後発の強みを武器に世界的ヒーローの座を確保したといっていいだろう。
だが、アメリカと同じ新参型のヒーローといっても、二一世紀のこのグローバル・ジャングル時代に脚光を浴びる中国は、さらに特殊な事情を抱えている。