はじめに
今からする長い話は、一九七二年に日本の中流家庭に生まれた私が、変化のたびに気の持ちようを工夫することでなんとかやってきた四〇年のあれこれです。全然ドラマチックじゃないけれど、面倒くささや悩み事は、もしかしてあなたとちょっと似ているかもしれない。似ていたらいいな、どこかひとつでも。
変化の時代だ、と言われて久しいですね。日本はもう昔のようにはいかない、変化しなくては、しなくてはと言われているうちにリーマンショックが襲い、東日本大震災があって、東京電力福島第一原子力発電所の事故が起きました。変化は選択できないのです。生きていると、自分も周りも否応なく変化してしまう。それを選択できると思い込んで、いつするか、どのようにするかとぐずぐずしているうちに、とっくに状況は変わり、頭のなかだけ、まだ自分は変わっていない、変われていないと思い込んでいる。身体は、いつも変わってしまう毎日を生きているのに、頭は、今何が起きているかじゃなくて、これからどうするかばかり心配しているのです。その「これから」なんてとっくに身体は通り過ぎて、見たこともない現在を呼吸しているというのに。
今の日本の大人の大半は、「明日は必ず今日よりもよくなる」と思って生きてきました。それを実際に体験した世代も、その世代が育てた子供たちも(私もその一人)、まだ「よくなるはずだった明日がそうでないのは、何かが間違っているからだろう」と思っています。自分の思い込みが現実と合わなくなったのではなくて、現実のほうがどこかで筋書きを間違ったからではないかと犯人探しに躍起になっています。でも、そうする間にも日付は変わり、お腹がすき、シワが増えているのです。だったら、変わってしまうことを受け入れて、今できることをしようよ、と思います。
あれはとても便利でうまくできた考え方だったけど、たまたま現実のありようと合っていた時期は終わってしまったみたい。じゃあ、今私が幸せになるためには何が必要なの? まったく新しい、今までにない価値観をつくりださなくてはいけないのかしら? でも、以前は使い物にならなかった「生きているだけで幸せ」っていう感覚は、今すごくリアルで、安心を与えてくれる。かつて輝いていた「みんなが持っているものを、私も持っている」っていう喜びは、今は陳腐で味気ない。同じ私なのに、変えるつもりはなかったのに、なぜ? そう思って握りしめた手を開いてみれば、とっくに知っていたことや経験済みだったいろんな感慨が急に価値を増したり、その逆もあるということに気がつきます。変化とは創造や破壊ばかりではない。ネガとポジが逆転するように、すでに手にしているものの価値づけが変わることで、世界の見え方が違ってしまうことなんて、恋愛ひとつとってもいくらでもあるじゃないか。それだって、新しい世界を生きるってことに違いないんだ。
すべては気の持ちよう。そう言ったら呑気すぎますか? でもね、本気で気の持ちようを変えるのは、なかなか勇気のいることなんですよ、きっと。気の持ちようで楽になるなら、希望が見えるなら、怖がらずに変えてみよう。勇気も本気も、気持ちのピントの合わせ方ひとつと思えば、それほど大それたことではないと思いませんか?