時代劇に見つけた私の居場所

 私の名は知らなくても「ホジュン」「宮廷女官 チャングムの誓い」は知っている。その「ホジュン」と「チャングム」の監督がイ・ビョンフンだというと、そのときになってやっと人々は私を分かってくれる。しかし、私が時代劇という自分に合った服を見つけるまでには、非常に長い時間が必要だった。
 テレビ局の新人プロデューサーはみな助監督職から始める。先輩プロデューサーの下で仕事を学びながら、一人でやっていけると思われたとき、監督の職を受け継ぐ。
 一九七〇年にMBCに入社した私に最初に与えられた仕事は、イ・ドンヒ監督がメガホンを取った「母の里」というドラマの助監督だった。その後、ユ・フンリョル監督のもとで「張禧嬪」の助監督を任され、七二年から二年間はピョ・ジェスン監督のもとで「大院君」「林巨正」などを制作した。初めて監督を任されたドラマは七四年四月から放送が始まった「113捜査本部」で、それから六カ月後、生涯忘れることのできないドラマ「第3教室」を制作する。私は「第3教室」を通して演出者としての自分自身を確信することができた。
「第3教室」は韓国最初のカウンセリングドラマだった。第1教室は学校、第2教室は家庭で、多くの青少年は学校でもなく家庭でもない場所をさまよっている。先生も親も関与できないその場所を私は〝第3教室〟と命名した。脚本は後日MBCドラマ「エデンの東」を書いたナ・ヨンスクがソウル市教育庁の手記集を土台に書き、その年の韓国放送倫理委員会放送倫理賞を受賞するほど高い評価を受けた。監督になって初めてもらった賞だったので感慨深く、私が監督にまったく才能がないわけではないという自信を持たせてくれた。
 しかし、下手な自信は一瞬のうちに泡となって消えた。妻と出会ったことで自分の番組のことが頭から消えてしまい、一年半近くスランプ状態に陥ったのだ。その後、幸いにも「歴史の人物」という五〇分のドキュメンタリー番組の再現ドラマ部分を任され、これをきっかけに時代劇が運命のように私に近づいてくる。私が本格的に受け持った時代劇は「暗行御史」だ。「暗行御史」を手がけながら少しずつ時代劇に愛情が生まれ、その後「朝鮮王朝五〇〇年シリーズ」を演出しながら、もはや時代劇から抜け出せないほどその魅力にとりつかれてしまった。
「朝鮮王朝五〇〇年シリーズ」を終えたあと、約一〇年間は現場を離れ、デスクとして働いた。デスクとは、後輩プロデューサーを指導、支援し、いい番組を作ることができるようにする管理職だ。
 ところが、デスクも一〇年目を迎えようというころ、私が管理する作品が不振続きで停滞に陥っていた。会社に対し面目ないと思う一方で、その言い訳のように心の片隅で「私が監督したい」という欲望が徐々に頭をもたげ始めた。正直、現場に再び出るのは怖くもあったが、演出に対する私の思いは、怖ささえも押さえつけてしまうほど圧倒的だった。
 そのとき、私は五五歳。定年までわずか四年しか残っていなかった。運よくドラマが成功すればまさに面目躍如だが、失敗すればプロデューサーとしての人生全てが台無しになりかねない状況だった。
 しかし、一度芽生え始めた現場への情熱は、どんな言い訳も寄せ付けないほど熱く燃え上がった。
 私は何よりも時代劇をやりたかった。三〇年を超すプロデューサー人生の中で私が悟ったことがあるとすれば、私に似合う服、私に合った服は時代劇だということだった。現代ドラマも何本か作り反応もよかったが、やっている間中、どこか体に合わない服を着ているような居心地の悪さを感じていた。そうだ、どうせやるなら企画から自分の手でやって、本当に作りたいドラマを作ろう。
 人気不振の時代劇で勝負をかけるという私を、あまりに無謀な挑戦だと考える人も少なくなかったが、断固とした私の意志を分かってくれる人もいた。こうして私は物語を展開する人物に会うため、歴史の中へと旅立つ準備を始めた。