第一章 天災が日本人をつくってきた

存在論としての3・11
萱野 東日本大震災が起きてから、「3・11は時代の転換点だ」という言葉をあちこちで耳にしてきました。とはいえ、「転換点」といわれるわりには、メディアや論壇で流通したのは、原発の問題にせよ政治の問題にせよ、状況対応的な話ばかりでした。もちろん、急激に変化する状況のなかでは、それも仕方のないことではあったでしょう。
 しかし3・11は、戦後社会のひとつの節目としてだけでなく、文明史的にも深くとらえなおすべき出来事です。なぜなら、自然災害やエネルギーの問題というのは文明のなりたちそのものに深くかかわっているからです。
 神里さんは、科学史や科学論を専門にしていて、今回の震災や原発事故に関してもさまざまなメディアで興味深い発言をしています。とりわけリスクというものを文明論的な視点から深く議論されている点に、私は強い関心をもちました。
 私はこれまで哲学者として、国家の問題や経済の問題、さらにはアイデンティティや道徳の問題など、さまざまな問題を論じてきました。そこに通底するのは、通常その問題が論じられるよりも大きな枠組みで考えてみるという方法論です。水野和夫さんと私の対談集(『超マクロ展望 世界経済の真実』)のタイトルにもなっているように、「超マクロ」にものごとをとらえよう、ということですね。
 哲学でいえば存在論的な考え方、ということになるでしょう。これは二〇世紀の前半にマルティン・ハイデッガーが切り開き、その後、ミシェル・フーコーやジル・ドゥルーズといった現代フランスの哲学者がさまざまな問題に応用・発展させていった方法論です。そもそも当の対象はどのような力、原理によって存在しているのか、というところまでさかのぼって問題を考えよう、という態度です。
 今回の東日本大震災や原発事故についても、私はそのような大きな枠組みで存在論的にとらえなおす必要があるのではないかと考えています。神里さんのご研究は、まさにそうした私の問題関心に呼応するものでした。
 ですので、この対談では、3・11によって私たちがあらためて考えなくてはならない問題を、それぞれの研究領域から出発して、巨視的に議論していきたいと思っています。
神里 よろしくお願いします。萱野さんの著作を拝見し、またご発言をうかがいながら思うのは、私と萱野さんは専門分野も異なるし、対象へのアプローチの仕方も違います。しかしその一方で、共通点もあるなあと。それは、みんなが直視したがらない問題にあえて分け入って覗き込み、あれこれ考えたり悩んだりすることが好き、というところにあるんじゃないかと思うんです。私の研究対象のひとつであるリスクの問題にせよ萱野さんが対象にしてきた暴力の問題にせよ、どちらも人間は見たくないし考えたくもない。いわば前者は外界の「ダークサイド」であり、後者は人間内部の「ダークサイド」ですよね。
 しかし、その両者は人間という存在にとっての、ある種の「業」であり、これまでも多くの失敗を重ねながらも付き合ってきたし、これからも付き合っていかなければいけない。とはいえ、3・11が明らかにしたように、現在の社会を見渡すと、私たちは決してリスクを上手にマネジメントできているとはいえません。なるほど近代を生きるわれわれは、さまざまな知識やテクノロジーについては充実させてきている。でも歴史のズームをぐっと広げ、広いパースペクティブで見てみると、われわれのリスクとの付き合い方は、むしろ本質的なところでヘタクソになってきているのではないか。そんなことを感じてきました。
 そこでこの対談では、萱野さんの暴力論と私のリスク論を折り重ねながら、最終的には新しい社会構想のヒントになるような対話をしていきたいと思います。
萱野 なるほど。甚大な物理的被害を人間にあたえると同時に不可避的なものでもあるという点で、自然災害と暴力は似ていますね。

▼地震のない時期に発展してきた日本
萱野 さっそく本題ですが、まず確認したいのは、今回の大震災によって、日本は地震の国だという当たり前の事実があらためて明らかになったということです。そもそも日本列島という地理的な存在そのものが地震によってつくられたわけですよね。つまり、ユーラシアプレート、北米プレート、太平洋プレート、フィリピン海プレートという四つのプレートが衝突して、地殻が隆起してできた陸地が日本列島です。だから、日本にとって地震は「存在の条件」だと考えられなくてはなりません。いわば地震とは、われわれにとって存在論的な問題なんです。
神里 本当にそうですね。日本の国土面積は地球上の陸地の〇・二五%しかないのに、地球上で起こるマグニチュード六以上の地震の約二〇%は日本に集中しているわけですから。
萱野 ただ、阪神・淡路大震災まで、戦後の日本社会はほとんど大きな地震を経験してきませんでした。つまり、戦後の高度経済成長から八〇年代のバブル経済まで、日本人は地震の脅威やその被害の大きさについて、すっかり忘れていることができた。
 戦後の高度経済成長からバブル経済までというのは、いってみれば近代日本の「黄金時代」だったわけですが、そのあいだに大きな地震がなかったというのはものすごい幸運です。その運のめぐり合わせの大きさを、3・11以後、あらためて考えざるをえません。
神里 萱野さんのおっしゃるポイントは、歴史をひもといてみても、まさにそのとおりなんです。たしかに日本は、昔から地震の比較的少ない時期に発展してきたように見える。
 たとえば一八世紀の頭、一七〇三年に元禄関東地震が起き、一七〇七年には宝永地震という、いわゆる東海・東南海・南海の連動型地震が起こるんですね。元禄といえば華やいだ文化、いわば「元禄バブル」があったわけですが、これらの大地震と、あとで触れるもうひとつの災害によって、ブレーキがかかったことは間違いありません。
萱野 元禄文化は上方の文化でしたが、その後、文化の中心地は江戸に移りますよね。その移行のひとつの契機に大地震があったということですね。
神里 そうなんですよ。元禄期のあと、地震のない平穏な一五〇年が続きましたけれど、そのあいだに、文化の主役は上方から江戸に移っていった。つまり、その主役交代の背景には、関東では大きな地震が一〇〇年以上ほとんど起こらなかったことが大きな原因のひとつとしてあるのです。そのあいだに、江戸はどんどん成長して、人口百万を超える世界最大の都市になるわけです。
萱野 八〇年代までの日本の成長時代と似たような「ぎよう こう僥ぎよう こう倖」があったわけですね。

▼自然災害で試される統治能力
神里 よく似ていると思います。しかし、一九世紀半ばに近づくと、またどうやら地震の活動期に入るんですね。そして一八五三年から小田原地震、安政東海・南海地震など大きな地震が立て続けに起こったのです。
 とくに一八五五年の安政江戸地震では、江戸が壊滅的な打撃を受けました。幕府は多額の復興費用の捻出に迫られ、財政危機に陥ってしまう。ろくな復興ができないものだから、幕府への信頼性はどんどん弱まっていき、統治能力も落ちていく。
 結局、統治能力というのは、巨大な外敵に対してどういう力をもっているかによって試されるわけです。その意味では、安政の大地震が幕末の政変を招いた一因となったことも疑いようはありません。
萱野 幕末の江戸幕府は、外国からの圧力だけでなく、大地震という危機によっても挑戦を受けてしまったと。たしかに、大地震のような自然災害も、統治権力の危機対応能力を試す要因となりますからね。
 経済発展という意味でも、統治権力の安定性という意味でも、日本社会と地震との関係は決して小さくない。一九九五年に阪神・淡路大震災が起こり、今回の3・11が起こってようやく、日本社会にとって地震の問題がきわめて大きなものであるということがこの時代においても認識されました。
 東日本大震災は、日本列島周辺がふたたび地震活動期に入ったことのひとつの大きな兆候だ、と考える地震学者は少なくありません。たとえば海外でも、3・11の約一ヵ月後にアメリカのテネシー州で開かれた米地震学会で、ニューメキシコ鉱工業大のリック・アスター教授が、巨大地震には活動期があることを発表し、その記者会見で東日本大震災の震源域の隣接地域で巨大地震が連動して起こるかもしれないという懸念を表しました。東海地震や首都直下型地震も、いつ起こってもおかしくないといわれています。かつてなく大きくなった地震のリスクをまえに、どのように今後の日本をつくっていけばよいかという問題も、考えていかなくてはなりません。