チェックイン──百マイナス一はゼロである

 ホテルとは一本の鎖です。
 ドアマンやベルボーイ、フロント、レストラン、客室係などお客様に接する表舞台の担当、料理人や電話交換台、空調設備の担当者、清掃係など裏方のスタッフがいて、何十というセクションがあって、それぞれが一本の鎖のようにつながっています。
 また普通の会社であれば、社員全員が休む日や、社員全員が顔を合わせる集会というものがあります。しかしホテルにはそれがない。八時間の三交替制で、だれかが必ず働いています。一年三百六十五日二十四時間休みなく、時間的にもつながっているのです。
 やはりホテルは実に特殊な仕事だと思います。
 一般の企業は「わが社はこれだ」という強みを持って、どこか一点が突出していれば評価されます。しかしホテルは満遍なく、ムラなくよいことが求められます。
 従業員が親切で好感を持たれたとしても、部屋の居心地が素晴らしくても、レストランのサービスが悪かったり、洗濯物の仕上がりがよくなかったりと、他に何かひとつでもお客様にとって不満足なことがあると、そのお客様は二度とホテルを使ってくださらないかもしれない。一カ所切れた鎖は、もう鎖として評価されません。
 つまり百マイナス一は九十九ではなく、ゼロということになってしまうのがホテルのサービスなのです。
 こんなたいへんな職場はありません。しかし一方で、お客様に百を提示した時の喜びは、この上ないものがあります。

   ホテルで私は五十年間、勤務してきました。
 帝国ホテルに入社したのは一九四九(昭和二十四)年。当時、帝国ホテルは進駐軍の宿舎になっていて、GHQの管理下にありました。そんな状況のもとで清掃係からスタートしたホテルマン人生が、一九九九年顧問で引退するまで、半世紀に及ぶとは考えもしなかったことです。
 ホテルマンとして人生の大半を帝国ホテルで働くことができたということは、私にとって何ものにも替えがたい財産となっています。
 いちばんの財産は、多くの人に出会えたことでした。
 エリザベス女王、ローマ法王、スカルノ大統領、ノルウェー国王、フィンランド大統領、ベルギー国王、白洲次郎さん、藤原義江さん、田中絹代さん、美空ひばりさん、マリリン・モンロー、アラン・ドロン、カトリーヌ・ドヌーブ……。
 それは有名人や要人に限りません。多くのお客様、私の上司や部下も、私にとってはどれも大事な出会いです。
 皆様の言動や姿勢から、多くのことを学ばせてもらいました。ホテルマンの先輩からはもてなしの奥深さを。帝国ホテルで働く先人たちからは極めることの難しさを。部下たちからは人を育てることの大切さを。留学先であるアメリカの教師からは学ぶことの喜びを。共にホテルを経営した仲間からは営むことの妙味を。白洲次郎さんからは紳士としてふるまうことを。
 こうした出会いの、どれかひとつでも足りなかったら、今の私はなかったでしょう。サービス同様、生き方もまた百から一を引いたらゼロになるのかもしれません。

   この本では、これまでの人生で私が育んできた思いをまとめました。職業柄、どうしてもホテルに関する話題が多くなりますが、ホテル業やサービス業に関わらない方にも、抵抗なく読んでいただけるように書いたつもりです。
 ホテルではお客様がチェックインした時からサービスが始まるわけではありません。電話で予約をいただいたその瞬間から、サービスは始まっています。だから私からすれば、この本を手にした瞬間から、楽しんでいただきたい気持ちでいっぱいです。
 この読書があなたに、心地よい宿泊のようなひと時を提供できますように──。