二世紀前半、五賢帝の一人トラヤヌス帝の治世にローマ帝国は最大版図に達している。東はアラビア半島から西はポルトガルまで、南はサハラ砂漠から北はスコットランドまでの広大な領土になる。それを囲む国境線の距離を合わせるとおよそ一万キロメートル、地球の円周の四分の一になるという。
 帝国領土内の自然環境たるや、目まぐるしく変化にとんでいる。アザラシやアシカのいる氷の海、巨大な森林、広大な草原、雪をいただく山々、アルプスの氷河が連なり、やがて湖と川を通れば、温暖な地中海沿岸にいたる。ローマ人みずから「我らが海(Mare Nostrum)」とよんだ地中海。そこには数多くの島々が浮かぶ。その海を渡れば、対岸には果てしないサハラの砂丘が広がり、さらには紅海のサンゴ#礁#しよう#まであるのだ。
 そこに生きる住民も多種多様である。金髪のゲルマン系住民、紅髪のラテン系住民、黒髪のオリエント系住民、さらには黄肌のアジア系住民、黒肌のアフリカ系住民もいるのである。それらの住民の数はおよそ六千万人、それがローマ帝国の人口なのである。古代の人口だから正確には測れないが、紀元二世紀ころの地球上の人口の三分の一はローマ帝国領土内に生きていた。

 これほど広大で多彩な帝国がありえただろうか。現代になぞらえて思いめぐらせば、こんな世界が念頭に浮かぶ。さしずめ太平洋を我らが海としてみよう。それをとりまく中国、ロシア、アメリカ合衆国が統合されて一つの帝国をなしていた、と想像する作家もいる。そこには、とてつもない巨象が出現する。だが、それに似た巨象こそが世界史のなかのローマ帝国なのである。

   この巨大なる地中海世界帝国を築いたのがローマ人であった。だが、もちろんその道のりは一朝一夕ではおさまらない。まさしく「ローマは一日にして成らず」なのである。
 伝承によれば、ローマが建国されたのは前七五三年という。イタリア半島中西部にある部族村落が寄り集まって都市らしき集落が生まれる。初めのころは王(rex)とよばれる領袖に率いられていた。王政は七代にわたり、とりわけ後半の三代には隣接するエトルリア系の王が君臨していた。やがて独裁におちいった王政への不満がつのる。
 前五○九年、貴族たちは王を追放して自分たちの手になる共和政(res publica)を樹立した。こうして貴族の集団指導体制にもとづく都市国家が世界史の舞台に登場する。
 このローマ人の都市国家はたんなる一ポリスにとどまらなかった。みずからの同胞であるラテン人の諸部族・諸国家を征服し、イタリア半島の各地に手を広げて、前二七二年には半島全域を制圧する。その勢いはとどまるところを知らず、西地中海のカルタゴや東地中海のマケドニアの勢力を斥けるのだった。このようにして地中海の全域を掌中におさめ、前三〇年には地中海を内海とする世界帝国が生まれた。
 ローマの支配(Imperium Romanum)は皇帝によって統括され、平穏と繁栄の極みを誇る。いわゆるパクス・ローマーナ(ローマの平和)が実現したのである。その平和と栄華の時代はいつまでもつづくかのようだった。だが、その#永#えい##劫#ごう#のごとき安寧にもいつしかほころびが見えはじめる。国家の財政危機には経済の混乱がともない、社会不安とともに分裂の危機が迫ってくる。
 皇帝たちの度重なる努力もローマ帝国を根本から立て直すことにはならなかった。それまで神々をあがめていた多神教社会だったが、キリスト教を受容することで一神教社会への道を歩みだす。それに加えて蛮族の侵入が相つぎ、その脅威にさらされながら、帝国は東西に分割される。とくに西部では深刻であり、国家そのものの基盤すら失われていく。時に四七六年、ここに西ローマ帝国は滅亡した。
 伝説上の建国から西ローマ帝国の皇帝の廃位まで、じつに千二百年以上の年月が人類史上に刻まれている。たしかに、ローマ帝国は広大な地中海世界を統一したばかりか、長期にわたって安定した支配をつづけた。この点では空前絶後の帝国とよんでも過言ではない。だから、この帝国を築いたローマ人の足跡をたどろうとする人々は、あとを絶たないのだ。