地震発生
頭で考えるよりも先に、本能が命の危険を知らせるほどの揺れだった。
部屋にあるものが、音を立てながら大きく左右に揺さぶられる。強い揺れは、しばらく続いた。息を潜め、地震が行き過ぎるのを待ち、もう収まっただろうと思ったつぎの瞬間、体ごと突き上げられるような衝撃が襲ってきた。建物はそのままへし折られてしまうのではないかと思うほどに激しく震え、部屋の壁、床、全方向から建物がむ不気味な音が響き渡る──。
二〇一一年三月十一日、十四時四十六分に宮城県牡鹿半島の沖百三十キロの海底で発生した地震は、日本での観測史上最大となるマグニチュード九・〇を観測した。
このとき、後に「奇跡の避難所」と呼ばれることとなる宮城県石巻市不動町二丁目にある勤労者余暇活用センター「明友館」では、職員八人が仕事をしていた。明友館は鉄筋コンクリート二階建ての白い建物で、一階と二階に和室や調理室、講習室など八つの部屋があり、それぞれを市民に時間貸しで開放している施設である。普段は、日本舞踊や華道、料理教室などが開かれているが、認知度は低く、隣接する客席数千五百席の石巻市民会館の隣の建物といった方が市民への通りはいい。館内には、八つの部屋以外にもシャワー室や職員が仕事をする事務室、機械室などがある。
地震が発生したとき、職員のうちのひとりで明友館に出向職員として勤務していた、糸数博(三十二歳)も震度六強のなかにいた。
「事務所にあったあらゆるものが、凶器となって襲ってきました。僕は自分の机と、後ろにあったスチールの棚の間で、押しつぶされないように机と棚を必死で押さえていました。自分にできたことは、ただ揺れが収まるのを待つだけでした」
とても長く感じられた恐怖の時間が過ぎた後には、すべてが変わっていた。本棚の本は床に投げ飛ばされ、間仕切りのパーテーションは引き倒され、はめ込まれていたガラスは見事に割れ、整然としていた事務所は、ほんの数分で足の踏み場もない状態となった。
窓の外には、彼がこれまで見てきた、災害の映像や、映画などで見知ってきたはずのシーンがまるで及ばない生々しい光景があった。
「電信柱は傾き、駐車場のアスファルトは裂け、液状化現象によって茶色い泥水がそこらじゅうかられていました」
地震の恐怖から解放されたものの、いつまた余震が襲ってくるかわからない不安を抱えた近所の住民たちは、静かなパニックを起こしながら路上に出てきていた。
明友館のある不動町二丁目は、旧北上川の河口から約三キロの東側沿いに面した区画にある。その川岸に家を構える五十五歳の電気工事業・松本一彦は、この日、仕事を早く終えてすでに自宅に戻っていた。自宅の一階でコーヒーをれ、二階の自室でくつろいでいたところ、突然の激しい揺れに襲われた。
すぐさま階下にいる年老いた母親のもとへと、壁を伝いながら階段を下りていく。居間でお茶を飲みながらテレビを見ていた母を助けるために、ガタガタと激しく揺れていまにも倒れそうな冷蔵庫を慌てて背中で押さえ、腕を突っ張り棒にしてを押さえた。
揺れが収まり、もともとなしでは歩くことがままならない母親を促して、靴を履かせて南側の庭に面した縁側に座らせた。自宅の北側にある家には、ひとり暮らしの高齢の女性が住んでいたため、その家にも様子を見に行った。その間、川沿いの電信柱に取りつけられた防災無線からは繰り返し大津波警報が発せられていた。