はじめに
世の中が平和になり、豊かになり、医療技術が進歩していくにつれて、「死」はだんだん影が薄くなってきました。
厚生労働省が発表した二〇一〇年(平成二二)の日本人の平均寿命は、男性七九・六四歳、女性八六・三九歳。七〇歳で祝う「古稀」とは「古来、稀なり」という意味ですが、今や七〇歳を祝う人はちっとも稀ではありません。八〇歳まで生きるのが普通であるのなら、二〇代、三〇代はもちろん、五〇代の人にとっても死は遠い未来のことでしょう。
最期を病院で迎える人が増え、病気や死の始末は限られた人にまかされています。私たちは、本物の死から徐々に遠ざけられてきました。
その反面、現代には偽物の死があふれています。映画、テレビドラマ、アニメ、テレビゲーム……リセットすればまた生き返ることのできる、安心な死。実感のない死が蔓延しているようです。
二〇一〇年の七月、生きていれば一一一歳の男性が、実は約三〇年前に亡くなっていたことが発覚しました。これをきっかけに全国の自治体で高齢者の所在調査がスタートし、発表される所在不明者の数はどんどん増えていきました。生きていれば二〇〇歳、ショパンと同い年の人の戸籍が残っていたなど、大ぼらのような話が報道されています。
本物の死は隠され、実体のない、偽物の生が生きている。まさに現代を象徴するような事件です。
生きる者にとって、死は恐怖です。その恐怖から目を背け、死への不安を遠ざけ、あたかも自分がいつまでも死なないような錯覚におちいって生きていきたいと思ってしまうのです。
たくさん子供を産んで子孫を残したい、有名になって名を残したい、大金持ちになって安楽に暮らしたい、後世に残る仕事をしたい、肉体は滅びても魂は永遠に生きると信じたい……人間はみな必死に死にあらがって、永遠の生を求めています。
けれども、いくら寿命が伸びたとはいえ、確実に死はやってきます。今の世の中で、その現実を実感をもって受け止められるのは、私たちのような高齢者でしょう。
体は思うように動かなくなり、病院に通うことが増え、同年代の身近な人たちがぽつり、ぽつりと亡くなっていく。いよいよその日は近づいてきた、今日か明日か、いつお迎えが来てもおかしくない、と身に迫って感じられるようになってきます。
もう、死について考えることを先延ばしにできません。ところがそうなったときに、死はあまりにもベールに包まれていて、我が身の始末のつけ方がさっぱりわからない。そういう方も多いのではないでしょうか。
そこに、突如、私たちの想像力をはるかに超える大地震と大津波、東日本大震災という災害がやってきました。この大きな災害により、老いも若きも日本中の人々が「死」に直面しました。それまでの平和で豊かな時代、私たちを幸福に包んでいた安心で安全な世の中は一変してしまいました。その事態は今も収束することなく、これから私たちは何を選んでどう生きていくのかという非常に困難な問題をつきつけられています。日本は今、大きな曲がり角を曲がろうとしています。