はじめに

 巷間こうかん、ヨハネス・フェルメールは“静謐せいひつの画家”といわれる。本書は、その静けさがなぜもたらされるのかという、少々マニアックな切り口からフェルメールと彼の作品に迫ってみようというものである。
 フェルメールの絵は、たしかに静かな印象がある。改めて筆者が指摘するまでもなく、そんなことは誰もが感じるがゆえに、フェルメールには“静謐の画家”という異名が冠せられているのだろう。作品を評する文章でも静けさが強調されたものとよく出合う。フェルメールは、万人が認める“静謐の画家”に違いない。
 ところが、では、なぜそれほどフェルメールの絵が静かに感じられるのかとなると、意外なほど掘り下げられたことはない。あたかも、空気が存在するのは当たり前であるかのように、フェルメールの絵が静かなのは自明のことであって、詮索せんさくする必要などないというが如くである。
 しかし、それは自明のこととして放っておいていいものなのだろうか。フェルメールのような絵を描いていた画家は、当時のオランダにはほかにもいた。ヘーラルト・テル・ボルフ、ピーテル・デ・ホーホ、ヘリット・ダウ、ハブリエル・メツー、ニコラス・マース、フランス・ファン・ミーリス……ちょっと考えただけでも何人もの名前が挙げられる。だが、“静謐の画家”と呼ばれるのはフェルメールだけだ。そこには、他とは一線を画する「何か」があるからではないか。そして、その「何か」とは、空気が私たちの生存に欠くべからざるのと同じように、フェルメールの本質的な部分と深く関わっているのではないか。あるいは、今日、フェルメールがこれほど大きな人気を博するようになったのも、その「何か」に秘密が潜んでいるのではないか……。
 もしフェルメールの絵に、私たちが感じるような静けさがそなわっていなければ、これほどフェルメールが世界中の人々から愛されることはなかっただろう。それを思うと、ますますフェルメールの静けさに分け入ってみたくなる。
 とはいえ、筆者は一介のアートライターにすぎず、美術史家とかいった専門の研究者ではない。したがって、これから書き連ねるあれこれも私的な研究にすぎない。だが、筆者はフェルメールが好きだということにおいては人後に落ちないつもりはある。私事で恐縮だが、筆者は「フェルメール美術館」というウェブサイトを運営している。名前の通り、フェルメールに関する情報をあれこれ盛り込んだホームページだ。このサイトを始めたのは、とくに仕事のためとかいったわけではなく、ただ単にフェルメールが好きだったからである。そのような筆者なればこそ、アカデミックな研究者にはできない切り込み方ができるかもしれない。あるいは、これまでとは違ったフェルメールへの旅ができるかもしれない。
 はたして、フェルメールの静けさというごく狭い切り口からどこまで話を導き出せるのかはわからないが、とにかくフェルメールの「静謐」に向かって一歩を進めてみたい。
 また、そんなことで本書はフェルメールの入門書とかではなく、いささかマニアックなフェルメール本となっている。あらかじめご了承願えれば幸いである。
 なお、フェルメール作品の題名および制作年は、精緻なフェルメール研究で知られる小林頼子氏の表記と説に基本的にしたがった。