はじめに
日常的な言葉の習慣からいえば、“安全”の対義語は“危険”だろう。しかし、現実の世界で安全を求めていくとき、人々の頭のなかで対立概念として想起されるのは、きわめて多くの場合、“利潤”なのである。安全にはコストがかかり、コストは利潤を圧迫する。その逆に、利潤を追求すれば、安全にかけるコストを圧縮せざるを得ない。両者は、拮抗関係にある。古典的社会通念に従えば、安全はいわば邪魔者であり、豊かで成熟した国や人々だけが享受できる贅沢品である。この古い社会通念はまったく間違っているのだが、いまだに大手を振って横行していた。
日本で原子力発電が計画され、核技術が導入され、原子力発電所が稼働を始めた一九五〇年代半ばから、一九七〇年代までの原子力発電の創成期において、安全性は、徹底的に無視され、安全への配慮を抜き取ったあとの空洞を埋める充填じゆうてん物として、原発の無謬むびゆう性を基礎に作られた安全神話が装填された。
致命的だったのは、国も電力会社も、安全神話に疑問を持つ人々を、許容しなかったことである。私たち国民の側にも、異常を正常なものの範囲に含めてとらえてしまう正常性バイアス(第一章参照)が働いていた。
原子力発電の矛盾は、電気を産み出す装置でありながら、電気を断たれると途方もない大災害を引き起こすことである。福島第一原子力発電所の場合、電源喪失は津波が原因で起こったが、直下型の地震でも、テロでもミサイル攻撃でも同様なことが起こりうる。政府も電力会社も、この潜在的危険を無視し続けたのである。
二一世紀は複合災害の世紀だ。今や災害は単純な自然災害で終わる時代ではない。文明の規模が大きくなるにつれ、何かの弾みで巨大な脅威に転じるもの——原子力発電所であれ、新型ウイルスであれ——と我々は隣り合わせに生きているという認識が必要なのだ。小さな災害が、ドミノ倒しのように巨大で複合的な災害を引き起こす危険な時代に私たちは生きている。
安全は他人まかせでは得られない。複合災害の時代に、私たちはどのようにして自らを防衛すべきか、いかにしてサバイバルを達成するか。そのことを本書では掘り下げていく。