序 アメリカがこよなく愛する映画――なぜいまキャプラなのか?
クリスマスの季節になると、アメリカ人が家族揃って鑑賞する一本の映画がある。フランク・キャプラ監督作品『素晴らしき哉、人生!』(46)である。
二〇〇六年、AFI(アメリカ映画協会)が選んだ「感動の映画ベスト一〇〇」では、『素晴らしき哉、人生!』は圧倒的な支持を得て一位となった。キャプラ作品は全部で四本がランクイン(『スミス都へ行く』(39)五位、『群衆』(41)四九位、『オペラハット』(36)八三位)しており、これはもっとも多いスピルバーグの五本に次ぐ本数だ。
また一九八九年に始まり、毎年二五本が選定されている米国議会図書館の〝アメリカ国立フィルム登録簿〟に、キャプラ作品は五作品と一シリーズ(『渦巻く都会』(28)、『当りっ子ハリー』(26)、『スミス都へ行く』、『素晴らしき哉、人生!』、『或る夜の出来事』(34)、『Why We Fight(我々はなぜ戦うのか)』(43〜45))が登録され、永久保存されている。
なお、フランク・キャプラの築いた手法は日本映画にも影響を与えている。『晩春』(49)、『東京物語』(53)などの名作で知られる名匠・小津安二郎の初期の作品、『大学は出たけれど』(29)、『落第はしたけれど』(30)などは、主題や技法をアメリカ喜劇映画から取り入れた作品である。設定や筋書きで笑わせるシチュエーション・コメディは、それまでの日本映画には見られない斬新なものであった。
二〇一〇年、一月から二月にかけてカリフォルニア大学バークレー校に付属するパシフィック・フィルム・アーカイブで、フランク・キャプラ作品を集めた映画フェスティバルが開催され、大きな反響を呼んだ。私もそれに参加したが、ファンの多さと年齢層の幅広さに驚かされた。
このフェスティバルでは有名な代表作だけではなく、初期の作品も多く上映された。キャプラを追いつづけてきた私もそれまで観る機会のなかった一九二〇年代の無声映画、『当りっ子ハリー』や『力漕一艇身』(27)まであり、人気を集めていた。現在、キャプラ作品の再評価の気運が高まっている大きな理由は、その作品の根底に「希望」と「人生の肯定」があるからだろう。
いま、世界を取り巻く環境は年々厳しさを増している。戦争、気候異変、エネルギー問題――とりわけアメリカでの二〇〇七年、サブプライム・ローンの破綻に端を発した二〇〇八年の世界金融危機は、私たちの生活そのものを直撃した。不況が長引くにつれて自殺者数も増大している。我が国はもちろん、世界中の人々が「希望が見えない時代」を生きている。
そして、むしろこんな時代だからこそ、フランク・キャプラの描く世界は、多くの人々に愛されつづけているとは言えないだろうか。彼の映画は、夢と希望を持ちつづけることがいかに大切かを、またそれを成立させる「映画の嘘」の力を、あらためて私たちに教えてくれるのである。
本書では、フランク・キャプラという人間の生い立ち、ならびに映画監督としての足場を築くまでの紆余曲折にも、できるだけ紙幅を割きたいと思っている。それはたとえば、保守的なアリゾナ州で、ユダヤ人であることから「異端者」扱いされて育ったスティーヴン・スピルバーグが、『E.T.』(82)に自己を託したように、映画とは作者の人間性の反映なくしては存在しえないからである。特にキャプラは、トーキー映画の黎明期において「ワンマン・ワンフィルム」という理想を掲げ、監督が個性を表現できる製作環境や映画の芸術性を、生涯通して求めつづけた人物なのである。
キャプラは、繰り返し人生の苦悩を味わってきた。幼い頃、家族とともにイタリアから〝希望の地〟〝自由の国〟アメリカにやってきた。移民であるがゆえの辛い少年時代と幾多の挫折を経て、映画の世界に辿り着いた。アカデミー賞監督賞を三度受賞、娯楽映画の「名匠キャプラ」と讃えられ、ジョン・フォードと並び称されることで、彼のアメリカンドリームは達成されたかに見えた。そして第二次世界大戦。イタリア系である彼は愛国心を示すために従軍した。映画監督としてもっとも活気に満ちていたであろう時期を犠牲にしたにもかかわらず、戦後は赤狩りの影響からもとの地位を取り戻せなかった。
「生きる勇気と喜び」を描きつづけながら、実人生では度重なる裏切りを経験した映画監督フランク・キャプラ。それでも彼の人間肯定のメッセージは色褪せることがない。
魅力あふれる作品とともに、アメリカの近代史そのもののごときフランク・キャプラの人生を辿ってみたい。