はじめに わたしたちは今、どこにいるのか

 わたしたちは今、いったいどこにいるのか。
 多くの人びとがきっとそう自問しているに違いありません。
 経済的な混迷や傷む社会の絆、格差と貧困、そして社会に広がる憤懣ふんまんや怨嗟えんさの声。日本の社会は、「3・11」以前から、かなり深い痛手を負っていました。そこに大震災に津波、そして未曾有みぞうの原発事故が追い打ちをかけたのです。
 東日本大震災以前の不安や焦燥に放射能汚染への恐怖が重なり、多くの人びとがこれまで経験したことのない心の動揺や空虚感に苛さいなまれているように見えます。平凡でも幸せな普通の日常生活の安全や安心が失われていくようで、わたしたちは「めまい」に近い、方向感覚の喪失に陥りつつあるのです。
 政治や行政、経済も含めて、日本の中枢的な機構や組織が動脈硬化を起こし、ほとんど権威や威信が失われつつあります。またわたしたちを社会につなぎ止め、ともに支え合おうとする意欲も希薄になり、多くの人びとが自己防衛に汲々きゆうきゆうとしているのではないでしょうか。その結果、世界の精神的な輪郭がますます曖昧あいまいになり、形を失いつつあるように思えてなりません。
 生きるに値する意味や可能性を与えてくれるものがしっかりと固定化されず、不安定で決定されない状態に置かれれば、それは不安と苦痛に満ち、吐き気を催すような「めまい」をもたらすに違いありません。
 そこから、「一日は何の目的も意味もなく次の日に続いていくだけではないか、つまり過去は、何かの序曲でも前触れでも始まりでも初期段階でもないような、一種の虚無の中に陥っているのではないか」(チャールズ・テイラー『自我の源泉』)という疑念が生じてくるかもしれません。
 そう言えば、映画化されて再び話題になった村上春樹の『ノルウェイの森』では、最後に主人公が、次のように叫ぶ箇所があります。
僕は今どこにいるのだ?でもそこがどこなのか僕にはわからなかった。見当もつかなかった。いったいここはどこなんだ?僕の目にうつるのはいずこへともなく歩きすぎていく無数の人々の姿だけだった。僕はどこでもない場所のまん中から緑を呼びつづけていた」
 思えば、八〇年代の終わり、まだバブル経済華やかなりしころ、「今どこにいるのだ?」と叫ぶ人びとはまだ少数派だったかもしれません。
 しかし、二〇一〇年代の今、「いずこへともなく歩きすぎていく無数の人々」の多くが、小説の主人公と同じように叫んでいるのではないでしょうか。わたしたちの多くが、今、自分たちがどこに位置しているのか、を問わざるをえない時代は決して幸福な時代とは言えないかもしれません。
 でも、不幸な時代はある意味で今に始まったわけではないのです。
 二〇世紀の歴史を決定づけた第一次世界大戦勃発ぼつぱつ寸前のサナトリウムでの出来事を綴つづったトーマス・マンの名作『魔の山』にも、大震災後の日本の社会を彷彿ほうふつとさせるような時代の空気が語られています。
「時代そのものが、外見はいかに眼まぐるしく動いていても、内部にあらゆる希望と将来を欠いていて、希望も将来もないとほうにくれた内情をひそかに現わし、私たちが意識的にか無意識にか、とにかくどういう形かで時代にむけている質問——私たちのすべての努力と活動の究極的な超個人的な絶対的な意味についての問いにたいして、時代がうつろな沈黙をつづけているだけだとしたら、そういう事態による麻痺的な影響は、ことに問いをしている人間がまじめな人間である場合には、ほとんど避けられないであろう」(トーマス・マン『魔の山』)
 第一章で詳しく触れますが、わたしがドイツ・ルネサンスを代表する画家あるアルブレヒト・デューラー(一四七一—一五二八)の自画像と出会ったのは、まさしく希望も将来もない途方に暮れていたドイツ留学のころでした。
 わたしは、「在日」という自分の出自だけでなく、そもそも生きることの意味や自分がどうして生まれてきたのか、なぜ生きるのか、この時代はどうして自分の問いに答えてくれないのか、そうしたもろもろの問いによって堂々巡りを繰り返し、悩んでいたのです。
 しかし、デューラーの自画像と出会い、わたしは自分の中から憂鬱ゆううつな鉛色の空が晴れていくような感じがしました。
わたしはここにいる、おまえはどこに立っているのだ
 絵の中のデューラーはそう語りかけているように思え、わたしは身震いするような深い感動を覚えたのです。大仰な言い方ですが、それは、五〇〇年の時空を超えた「啓示」のように思えてなりませんでした。
「そうだ、自分はどこにいるのか、どんな時代に生きているのか、そして自分とは何者なのか、それを探求していけばいいんだ。ただ、どこからか与えられる意味や帰属先を待ち続けるのではなく、自分から進んで探求していけばいいんだ」
 そう決めると、何だか生きる力が湧わいてきたのです。
 明らかにその当時のわたしは、『ノルウェイの森』の主人公・ワタナベ君や『魔の山』のハンス・カストルプ青年のような、ごくごく平凡な若者、いやもう若者でもないモラトリアム人間でした。
 だが、そんな平凡な人間にも、何かを押し付けたり、あるいは媚こびたりせず、ただ目の前に「在る」だけで、絵は人間の深い部分に隠され、普段自分でも気づかないような「感動する力」を呼び起こしてくれるのです。
 ただ目の前に「在る」だけの絵。少なくともわたしたちがそこに近づくことさえすれば、「在る」だけで、視覚だけでなく、心身のすべてを揺るがす絵。それは確かに特定の線と形と色から成り立っています。
 けれども、その「仮象」を通じて、いやそれと不可分な関係にあることで、絵はその美の真実をわたしたちに開示してくれるのです。
 文字もなく、音もなく、ただ沈黙のうちにわたしたちに見られることを願いながら、数十年、数百年の歳月を閲けみし、そしてまた数十年、数百年の歳月を待ち続ける絵。その中の一枚に出会う僥倖ぎようこうに恵まれ、わたしは美の真実に触れた気がし、その静かな感動を今でも反芻はんすうしています。
 わたしが二年にわたって(二〇〇九年四月—二〇一一年三月)NHKの「日曜美術館」という番組の司会を務めることができたのも、デューラーの絵との出会いがあったからだと思います。本書は、そのときの数々の思い出深い作品との遭遇をベースに、わたしなりに美の真実と、人生の深淵に迫ろうとする試みの成果です。
 読者の方々もきっと、芸術作品の力を通じて、わたしたちが今、どこにいるのか、それを知る手がかりを見いだせるのではないかと思います。