はじめに
明日は明日の風が吹く、と日々をやりすごしてきたけれど、風どころか雨、ともすれば槍やりさえ降ってきそうな時代にいま、私たちは生きている。
二〇一一年二月十一日、アラブの大国エジプトで「革命」が成功した。三十年間にわたってこの国を統治してきたムバーラク政権が民衆のデモによって倒された。
それからちょうど一カ月後の三月十一日、東日本大震災が発生し、被災した東京電力福島第一原子力発電所が暴走を始めた。
エジプトの「革命」の直前に同じアラブ諸国の一つ、チュニジアで独裁体制が打倒されてはいた。しかし、盤石ばんじやくとみられていたムバーラク政権が青年たちの始めた非武装のデモで倒されることなど、大半の地域研究者にとって予想すらしないことだった。この「革命」についての評価がいまだに定まりにくいことも、予期しなかった事実への驚きが根底にあるからだろう。
原発の暴走は、これまで原発の危険性を指摘してきた人たちにとっては「想定内」の事態だった。とはいえ、それでもあくまで机上の想定や遠い国での事例を引いてのことであったろう。四基の原発で手に負えない事態が発生するという現実を目の当たりにして、私たちは否応なく人類の未曾有みぞうの難局に向き合わされてしまった。
後に世界史に記されるであろう二つの予想を超えた事件によって、私たちは日常の虚構を認識する間もなく、混沌に投げ出されている。未曾有の原発事故が起きるや、危ないと思われがちなエジプトやイラクの現地から、知人や友人たちが「こっちに逃げてこい」とメールをくれた。いま、日本社会も日本人たちも、奇くしくもアラブ人たちと同様、好まざるとも非日常に対峙たいじさせられている。
渦中においては漠然としか感じられない時代の画期に直面したとき、ある人たちは従来からの教条にしがみつき、またある人たちは現実に刮目かつもくしつつ、論理の再構築といういばらの道に進む。いずれにせよ、そこで試されるのは個々人がこれまでの生存の過程で宿してきた精神性なのだろう。
定番の問答の暗記からは、指針を見いだせない時代が到来している。そうであるのなら、答えがあるのか否かさえ分からない問いについて、考え続けるという蛮勇に心惹ひかれてみたい。
本書は二〇一一年前半に起きた二つの世界史的な事件のうち、エジプト「革命」の断片を拾った記録である。この四半世紀、筆者は中東、イスラーム圏に心を寄せてきた。にもかかわらず、このエジプトでの叛乱はんらんに慌てふためいた凡庸な記者である。革命の終盤にかつて暮らしたカイロに駆けつけ、幸いにもその一幕を垣間見ることができた。
思考の土台は事実にある。不可視の時代を切り開こうという勇気ある人たちの精神的営為に、この拙つたない記録がわずかながらにでも参考になれば、それは記録者である凡俗の徒にとって望外の幸せである。