夢もフィクションも捨て、場所を見つめ直すこと
二〇世紀初頭、弱者は「建築」によって救出可能であると人々は信じた。建築は神の代用品ですらあった。誰でも「持ち家」という建築を与えられることで救われる。公共建築によって、その工事プロセスが生み出す雇用によって、弱者を救済することができる、と人々は信じた。
しかし結局のところ、「空間の商品化」は誰も救うことができなかった。全員が傷つき、ヤケドをした。土地というもの、それと切り離しがたい建築というものを商品化したことのツケは大きかった。商品の本質は流動性にある。売買自由で空中を漂い続ける商品という存在へと化したことで、土地も建築も、人間から切り離されて、フラフラとあてどもなく漂い始め、それはもはや人々の手には負えない危険な浮遊物となってしまった。
二〇一一年三月一一日、大地震と津波とが東日本を襲った。それから三週間後、まだ水の引かない石巻の町を歩き回った。
確かに津波はすべてを流し去った。驚くべき破壊力を目の当たりにして、血の気が引く思いであった。しかし、それでもなお、いや何もないからこそなおさら、そこには何かが残っていることを感じた。場所というもの、そこに蓄積された時間と想いというものは、決して流し去ることのできるものではない。そこに何もないからこそ、よけいに場所というものが力強く立ち上がり、大声で叫ぶのである。商品化、流動化などという小賢しいたくらみにはビクともしない、場所というもののたくましさ、しぶとさに、圧倒された。
この大地を切り売りして商品化することが何をもたらすかを、その行きつく先を、その終末をすでにわれわれは見てしまった。持ち家をいくら建てても、公共建築をどれだけ建てても、場所は曇り、ぼやけていくばかりであった。二〇世紀の建築は、場所を曇らすために、人々を場所から切り離すために建てられた。僕たちはもう一度、場所を見つめることから始めなくてはいけない。大地震と津波とが、そんな僕らを場所へと連れ戻した。夢もフィクションも捨てて、場所から逃れず、場所に踏みとどまって、ムラを立ち上げるしか【途/みち】はないのである。
その場所と密着した暮らしがある場所をすべて「ムラ」と僕は呼ぶ。現代美術の領域では「サイト・スペシフィック(場所密着型)・アート」という言い方があるが、サイト・スペシフィックな暮らしがある場所はすべてムラである。だから一見、都市という外観であっても、そこにムラは存在しているし、事実、すでにさまざまな場所で人々はムラを築き始めつつある。その土地が響かせる音に耳を澄ませながら、四つの地面を歩き、対話した。