はじめに
むかしむかし、といっても二、三百年前の話である。江戸時代にさかのぼるが、西国・長崎(長嵜)に唐人屋敷(あるいは唐人屋舗)という特殊な中国ワールドがあった。
その期間は、創設された元禄二年(一六八九)から、「安政の開国」である安政元年(一八五四)までの一六五年間である。大火で唐人屋敷が物理的に消滅するのは明治に入った一八七〇年であるから、実質的には一八一年間ということになろうか。
唐人が唐船に乗って初めて長崎に現れたのは永禄五年(一五六二)といわれるから、そこから計算すると唐船貿易の歴史は約三百年間にも及ぶ。本著は、戦国時代末期から江戸時代における長崎を中心とした日中交流史を描き出そうというものである。中国でいえば明朝末期から清朝時代のことである。
唐人とは、いうまでもなく中国人を指す当時の表現で、唐人屋敷は、唐人の住居である。唐人はそれを「唐館」、「土庫」と呼んだ。「土庫」とは、オランダやイギリスがアジアに設置した貿易拠点を、中国語で土庫と総称したことに由来する。
長崎には、出島といわれる埋立地に阿蘭陀(和蘭)商館があったことは有名である。今でもそこは復元されて、観光名所となっている。市内に現存していたさまざまな洋館を移築したグラバー園と並んで、長崎が誇る「異国情緒」のシンボルだ。
ところが、唐人屋敷といわれる旧跡は、ほとんどその面影を失っている。今は長崎市館内町といわれ、天后堂などのわずかな中国廟を除いて、その痕跡がほとんどない。しかし、かつてそこには日本唯一の中国人(唐人)ゲットーが存在し、多い時には二、三千人の唐人が暮らしていた。あえてゲットーと表現したのは、高い塀に囲まれ、長崎奉行の厳しい監視の下で、唐人たちは強制的に閉じ込められ、独自な、ある意味で異様な生活を強いられていたからである。同じようなゲットーが、朝鮮李王朝のプサン(釜山)に築かれていた。日本人(対馬宗家藩士)が閉じ込められていた倭館である。プサンを訪れた人は分かっているだろうが、倭館の旧跡も消えうせてしまった。同じような運命だ。
鎖国政策を実行した徳川幕府は、全面的に海外との交流、交易を禁止した。その例外の一つが、幕府直轄地である長崎でのオランダ、中国貿易である。だが長崎でも自由な活動が許されていたわけではない。その活動は厳しく監視、制限されていた。長崎には、阿蘭陀商館である出島と、唐人屋敷が築かれ、貿易が許されたオランダ人も中国人も、自由に外出することはできなかった。
(中略)
写真などはない時代であるが、関心が高かっただけあって、幸いなことに、多くの絵師が描いた絵画や版画が残っている。それらを参考に、タイムトリップしようというのである。唐人屋敷で生活した中国人が内部の生活を描いた回想録なども少しは残っているので、暇をもてあました船員たちがどのような生活をしたのか、ワクワクしながら描き出してみたい。