まえがき モダンホラー映画への招待
『プレシャス』に恐怖しろ!
『プレシャス』(二〇〇九年・米)という映画を御存知ですか? 感動作ですし、監督もそうなることを意図して作ったはずですが、それでも僕は、この作品はホラー映画だと思います。映画には、殺人鬼も怪物も出てきません。ニューヨークのハーレムという過酷な環境で、一六歳の黒人少女がありとあらゆる不幸の中で生きている。ジャンクフードで育ったことをうかがわせる肥満した体。母親からの絶え間ない虐待。彼女は父親にレイプされ、二度目の妊娠が発覚して、学校から退学させられてしまいます。もう十分悲惨なのに、でもそれだけでは終わらない。拷問が描かれた映画よりも怖さがつのり、心底戦慄しました。
これは何よりも、人を「怖がらせる」ために作っている、そう思わされる映画です。少女をそんな境遇に追い込んだ社会を告発する目的であれ、アメリカで黒人が背負わされてきた悲惨な歴史に目を向けさせる目的であれ、とにかく恐怖以外の何ものでもないこの世の地獄を、真正面から描いている。だからこの作品は、僕にとってホラー映画なのです。映画館のフカフカの座席からそれを眺めて「こういう世の中をなんとかしなくては」と思う人もいるでしょうし、それはそれでいい。でも、同じように眺めて恐怖を対象化し、絶対にそんな目にあいたくない最悪の出来事と向き合う力を身につける、それがどんな出来事であろうと「スクリーンの中の世界」にすぎないと楽しんでしまう、そういう見方もあっていいはずだし、あるべきです。見る人が恐怖するしかないような状況を描く映画、それを目的として救いのない状況を突きつけてくるあらゆる映画が僕はホラー映画だと思いますし、そうした状況にフィクションとして正面から向かい合うことができるのがホラー映画なのだと断言してもいい。
だから『プレシャス』は、観客を怖がらせていいんです。社会を告発する映画ならそこまでしなければ告発にならないし、観客はそれを楽しむことも含めて自分の思うように受け取る権利がある。いや、権利とまで言ってしまうと大袈裟かもしれませんが、「こういう映画だからこう見ろ」なんていう意見に対して、皆さんは「クソ喰らえ」と言い返しましょう。だから『プレシャス』は、見る視点によってはホラー映画で、もの凄くよく出来た映画、傑作なんです。
これを暴論と思われる方にはススメませんが、そう思われない方に荒木飛呂彦が認めるホラー映画とその見方を知ってもらいたくて、こんな本を出すことにしました。もちろん中身は「いわゆる」ホラー映画が中心になっているので、ホラー映画ファンの方は御安心ください。そしてホラー映画ファンでない方もこの本を読んで、ぜひともファンになってもらえればと思います。なぜならフィクションと知って恐怖を見据える力さえ身につけられれば、あらゆる映画の中でホラー映画ほど面白いものはないのですから。
一九七〇年代以降の作品を中心に
最初にホラー映画の魅力に取り憑かれるきっかけとなったのが『エクソシスト』(一九七三年・米)という作品で、映画館で見たのが中学生の時でした。以来、公開されるホラー映画を次々と見続けてきましたが、傑作ばかりではもちろんなく、超B級作品まで含めて玉石混淆。それでも「見なければよかった!」と思った作品がほとんどなかったのは、ホラー映画だけが持つ面白さに僕がどっぷりと浸ってしまったためでしょう。そんなホラー映画ファンの独り言として、この本では僕が見てきた一九七〇年代以降のホラー映画を紹介します。
そのため『エクソシスト』以前の作品、ホラー映画がまだ「怪奇映画」と呼ばれていたころの「吸血鬼」や「狼男」、「フランケンシュタインの怪物」といった怪物の登場する作品には、ほとんど触れていません。古典だからではなく、それらを見たのは公開時ではなく、名画座やビデオテープ、DVDなどで後追い体験したものばかりだからです。リアルタイムで見た封切り作品を優先した、『エクソシスト』以降のいわゆる「モダンホラー」中心のセレクションとなっていることをまず御理解ください。