はじめに

 外来に四〇歳代の男性が咳と発熱の症状で来診した。ちょうど風邪が流行っている季節だったので、症状を聞いて、診察をして「感冒」(風邪)と診断した。そのことを伝えて、必要な薬を処方し、日常生活の対処、薬の副作用などを説明して診療を終了した。こちらの言うことには頷くものの、黙っているので何となく違和感を覚えたが、「三日経って、よくならなかったらまたいらっしゃい」と言って離室を促した。男性は診察室をでる間際、ドアの取っ手に手をかけたとき、「先生、エイズっていうことはないですよね」と言って私を振り返った。
 よく話を聞いてみると、三ヶ月ほど前に東南アジアに出張したときに酒の勢いもあって、買春してしまったという。しばらく忘れていたが、昨日から咳と発熱が始まり、症状はいつもの風邪と同じようだったが、ふと心配になって家庭医学の本を見ると、エイズは肺炎で発症することが多い、と書いてある。不安が募り、我慢できず受診したという次第であった。念のため血液検査とレントゲンをとりましょうということで、納得してもらった。幸いにしてHIVウイルスは陰性であった。
 医師として情報取得の不足があったことを大いに反省した。感冒と診断して医学的に適切な対応をしたと思っていたが、「患者の思い」に対しての配慮が欠けていた。このようなケースは珍しくない。ガンを心配してくる患者にもこのようなことが多い。コミュニケーションがうまくいかなかったことが原因である。医師の側は医学的に必要な情報を得て、正しい診断をし、適切な治療を行うという一連の流れで診療を行ったことに問題はないように思える。一方患者の側は症状を話し、診察を受ければ正しい診断がつくものと思っていた。自分の心配を具体的に伝えなかった、あるいは言いだせなかったという問題はある。医師の立場からは、咳と発熱で受診した患者に「あなたはエイズを心配していますか」「あなたはガンの心配もしていますか」とは聞けない。余計な不安を与えるだけである。ただ、患者がもう少し具体的に自分の心配を伝えてくれれば、効率よく、満足のいく医療を受けられたのではないかと思われる。逆に医師が最後に「他に何か心配されていることはありませんか?」と一言尋ねていれば、異なる展開になったに違いない。(中略)

 本書は患者―医師関係の変化とその大本にある要素について、日頃考えていることや医学生に話していることをまとめたものである。患者にとってはよい医療を受け、医師にとってはよい医療を提供するために最も重要なことはコミュニケーションである。ただ、患者と医師の間のコミュニケーションは非常に特殊である。なぜよいコミュニケーションができないのかについて患者側の要素と医師側の要素から考え、その関係を改善する方法についても紹介してみた。本書を通じて互いの理解が進み、よりよい医療につながれば幸いである。
 なお、本書で取り上げた患者の紹介は、実際の経験をもとにプライバシーに配慮して書き換えたものである。