はじめに

 高倉健、佐藤純彌、栗原小巻、山田洋次、木下惠介と言えば、みなさんにもおなじみのトップクラスの日本の映画人である。だが、彼らが日中関係史でも大きな役割を演じたことをご存じだろうか。
 日中戦争によって中国の人々の日本に対するイメージは著しく損なわれた。だが、戦後の一九五六年に中国で一般公開された木下惠介監督の『二十四の瞳』(54)は、軍国主義政策の被害者としての日本の庶民の姿を中国の観客に提示したことで、残虐な日本兵という中国の人々の記憶に深く刻まれたイメージを書き換え、中国における日本人のイメージの改善に大いに貢献した。
 そして、文化大革命(一九六六〜七六年)の空白を経て、一九七八年に『追捕』というタイトルで中国において上映された、佐藤純彌監督/高倉健主演の『君よ憤怒の河を渉れ』(76)は、文革後に初めて公開された資本主義国映画として、鄧小平による改革開放時代の幕開けを示すシンボリックな作品となった。この映画は当時の半数以上の中国人が観たと言われるほど大ヒットとなり、高倉健は国民的な人気を博し、健さんブームが中国を席巻したのである。また、山田洋次監督の『幸福の黄色いハンカチ』(77)や『遙かなる山の呼び声』(80)、『男はつらいよ』シリーズは、文革によって長年の間文化的抑圧を強いられた中国の観客にとって、センチメンタリズムへの欲求の捌け口となり、とりわけヒューマニスティックなテーマと豊かな映画技法が文革終焉後の中国の観客に衝撃をもって受け入れられた。さらに、かつての海外渡航娼婦の実態を描いた社会派映画『サンダカン八番娼館 望郷』(熊井啓、74)、松竹の恋愛映画『愛と死』(中村登、71)は、セクシャルな描写や恋愛を主題とすることを長年禁じられてきた中国で一般公開されると、たちまち一種の社会現象となったほどセンセーションを巻き起こし、これら二つの映画に出演した女優の栗原小巻は中国の人々の崇拝の的となったのである。
 木下惠介は、小津安二郎、山本薩夫、新藤兼人といった多くの日本人監督と同じように、中国戦線に出征した経験を持っている。また、山田洋次監督は、二歳から一六歳までの間に一〇年間を中国の東北地方、かつての満州で過ごした。さらに、その当時、少年時代の佐藤純彌や高倉健も、当時のマスメディアや大人達から与えられた情報を通じて、中国という国を強く意識していた。戦後世代の栗原小巻は、恩師に当たる千田是也の教えや、自ら演じた長谷川テルの生涯から歴史を学び、中国に親近感を抱くようになった。このような直接的・間接的な中国体験が原点となって、彼らは戦後、とりわけ文革以後の日中映画交流に積極的にかかわってきたのである。
 中国とのかかわりを持つ日本の映画人達が実際に体験した生の中国の姿や、中国に対して抱いたイメージとはどんなものであったのだろうか? 本書は、日本と中国の間で日本映画人が果たした役割とその交流の実相に、高倉健、佐藤純彌、栗原小巻、山田洋次をはじめとする当事者達のインタビューを通じて迫ろうというものである。そして、合作映画を作る際の興味深いエピソードや、中国映画人との親交についての話は、現在の日中関係を考える上でも、有益なのではないだろうか。

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 文化大革命後、中国の人々に対して、寡黙なたたずまいと抑制された演技によって鮮烈な衝撃を与えた、あの俳優から話は始まる――。