はじめに

 小学四年生の教室でのことだった。ワークシートを配って子どもたちに「自分のいいところを三つ書いてみてください」と言ったとたん、クラス中から「な〜い!」という大コーラス。思わず、「一〇歳にして、いいところが一個もないの?」と聞き返すと、「ダメなところなら一〇〇個ぐらい書ける〜!」とたたみかけるように無邪気な反応が返ってきた。
 その学校では「かかわりタイム」と銘打って、コミュニケーション・スキルの向上を図る授業を取り入れ始めていた。校長先生に協力して、アサーション・トレーニングという自己表現に関わるトレーニングを下敷きにプログラムを考え、実施し始めたところだった。
 自分のいいところが見つからない。ダメなところなら一〇〇個ぐらいあるこれはお母さんたちのグループワークでも大学生の授業でもよくぶつかる反応だ。子どもたち、学生たち、そしてお母さんたちの話を聞くたびに、謙譲の美徳という日本特有の文化はあるにしても、謙譲を通り越して自己否定的すぎるのではないかという印象が私の中でふくらんできた。そしてその自己否定的な雰囲気は世代を経るに従って、徐々に増大しているように感じられるのも気になった。
 たじろいだものの、冒頭のクラスで私が伝えたのは、シンシア・ウィッタム著『読んで学べるADHDのペアレントトレーニングむずかしい子にやさしい子育て』(明石書店)を参考にして作った「自分の行動に注目し、OK行動を探す」というワークによって、自分のいいところ探しをする方法だった。いっしょにいいところを探す授業をしたあと、子どもたちから「いいところがいっぱい見つかってよかった」「ダメなところが一部だと知ってほっとした」といった感想をもらって、私のほうもほっとした。
 自己表現を支え、自分の感情を自分で把握する力のもとには「自分は自分なりにOKである」という感覚が必要である。ぐらぐらと揺れる地面の上では、常に不安を感じて緊張を強いられるように、もし「自分なりにOK」という感覚を持てずに絶えずゆらゆらと揺れているとしたら、日々の生活や対人関係の中で不安や緊張を感じ続けても不思議はない。
 学校や講演でのさまざまな体験から、もしかすると、多くの子どもたち、そして大人たちは、過大でも過小でもないきちんとした「OK」を必要としているのではないか、きちんとした「OK」の伝えかたを必要としているのではないかと強く思うようになった。
 そのために、おためごかしにほめるという形ではなく、また、マイナスの感情を押し込めるための無理なポジティブさを求めるのでもなく、きちんと自分の中のOK=○(まる)に気づくことについて、そしてまわりの人の中のOK=○をまわりにも伝えることについて考えてみたい。それから、自分の中の未熟な部分について過剰に卑下するのではなく、ダメ=×(ばつ)に気づいて落ち込み続けるのでもなく、ちょうどよく自分を認めるということについて考えてみる、そんな本を作りたいと思った。自分の中のOK=○をちょうどよく認めることができれば、自分の内側で起こっている感情や考えにじっくりと目を向ける余裕ができるようになる。そして、それができれば自分の感情や考えをまわりに伝え、自分とは違う何かを受け入れる許容力が持てるようになる。つまり自分に○をつけることがコミュニケーション力、すなわち「人とつながる力」のもとになるのではないだろうか? そんなことについて伝えたいと思って書き始めたのがこの本なのだ。
 なお、本書で取り上げたケースは、共通するテーマにおいて脚色を加えるなど、プライバシーに配慮を行ったものである。