はじめに
この本を世に出すにあたっては、私は、何とも言えない漠然とした不安を感じています。といっても、私個人の身に何か危害が及ぶとか、そういった類の不安感とは違います。
この本は、国家的機密情報をリークするとか、外国の陰謀をあばくとかいったものではありません。ここに書かれていることは、すべて、公開情報をもとにしています。そして、誰にでも手に入れられる情報をもとにし、誰にでも納得できるような論理を用いて、日本のTPP(環太平洋経済連携協定)への参加について反対し、その根拠を明らかにします。それだけのことです。
では、何が私を不安にしているのでしょうか。それは、我が国における議論や物事の進み方の異様さです。
まず一番怖いのは、農業関係者を除く政治家、財界人、有識者あるいはマス・メディアが、ほぼすべてTPPへの参加に賛成しているにもかかわらず、その根拠があまりに弱く、その論理があまりに乱れているという点です。この全体主義的な事態は、ただごとではありません。
私は、TPPへの参加に賛成する議論を追っているうちに、ある共通する特徴に気づきました。それは、どの議論も、戦略的に考えようとするのを自分から抑止しているように見えるという点です。たとえるならば、戦略的に考えようとする思考回路に、サーキット・ブレーカーが付いていて、あるコードが出ると、それに反応してブレーカーが自動的に落ちて、思考回路を遮断してしまうような感じです。
TPPをめぐる議論には、そういうブレーカーを働かせるコードが特に多いのです。いくつか例を挙げてみましょう。
「開国/鎖国」「自由貿易」「農業保護」
「日本は遅れている/乗り遅れるな」「内向き」
「アメリカ」「アジアの成長」「環太平洋」
TPP賛成論には、こういったお決まりのセリフがよく出てきます。そして、こういったセリフが出てきた瞬間、論理が飛んで、TPPに参加すべきだという結論へと着地するのです。どれほど論理が矛盾していようが、どれほど現実に起きていることと反していようが、「TPPに参加するしかない」となり、他の結論を許さないようになっているのです。
私は、TPPをめぐる議論を検証しながら、日本人の思考回路がたくさんのブレーカーでがんじがらめになっていることに気づきました。この本は、TPPに関する是非そのものを議論するというだけでなく、それを通じて、日本人の思考回路を束縛し、戦略的に考えられないようにしているブレーカーの存在を明らかにするものと思います。
戦略的に考えられないということは、今の世の中、致命的な問題です。
二〇〇八年のリーマン・ショック以降、世界は激変しつつあります。かつての世界恐慌がそうでしたが、世界的な大不況では、各国とも生き残りのために必死になります。そのためには手段を選ばず、武力衝突も辞さないでしょう。
こうした中、さまざまな国が、日本に対して、うまい話やきれい事を並べながら、えげつない計略をいろいろと仕掛けてくるでしょう。私は、TPPもそのひとつだと思っています。いや、TPPなど序の口なのかもしれないのです。
このように言うと、「排外主義的だ」「感情論だ」「内向きだ」と批判されるかもしれません。しかし、二〇一〇年の環太平洋地域に限っても、すでにいろいろとキナ臭い事件が起きました。特に目立った動きだけでも、例えば、中国漁船による尖閣沖の領海侵犯事件とそれをめぐる中国の対応、ロシア大統領による北方領土訪問、北朝鮮による核開発や韓国への砲撃などが挙げられます。予測不能の事態がいつ起きてもおかしくはない世の中になっているのです。
これほど厳しい世界になっているのに、ちょっと戦略的に考えようとするや否や、すぐにブレーカーが落ちて思考回路を遮断してしまう。そのような頭の構造をしているようでは、あまりにも危な過ぎます。私たちは、そんなブレーカーを一刻も早く取り外して、まずは戦略的な思考の回路を取り戻さなくてはなりません。
この本は、TPPという具体的な問題の検証を通じて、日本人の戦略的思考回路を回復させようという試みです。ですから、これからTPP以外の問題が日本に降りかかったときにも、この本に書かれた戦略的思考回路が役に立つことを狙って、私は書いています。
実際、TPPというアジェンダが浮上した背景、そしてそれに対する政府、財界、知識人、マス・メディアの反応を解明しようとすると、農業や貿易はもちろん、世界経済の構造変化、アメリカの戦略、金融、財政、グローバリゼーション、政治、資源、環境、安全保障、歴史、思想、心理、精神と多岐にわたる論点に考察を及ぼさなければなりません。しかも、これらすべての論点が、TPPを中心にして、相互につながり、絡み合っているのです。
言い換えれば、TPPという穴をのぞくことで、リーマン・ショック後の世界の構造変化、そして日本が直面している問題の根本が見えてくるのです。ですから、それらを頭に入れておけば、今後、TPP以外の政治経済的な問題に対処するにあたっても、きっと役に立つことと思います。
TPPとは、それだけ根の深い問題なのです。