二頭のマッコウクジラは、巨大な頭に詰め込まれた脳油を温めるために、毛細血管に大量の血液を流し込んだ。深海で高密度になっていた二〇〇〇リットルもの脳油が溶けるにつれ、軍艦のような頭が上を向き、果てしない闇の中を加速しながら急上昇していく。水面下二〇〇メートルまで上昇すると、水の色が黒から深いブルーに変わり、上方には光が白く滲み始めた。やがて白い光芒が光の柱となり、スポットライトを浴びた黒い大きな影はゆっくりと光の方向へ昇っていく。碧々とした赤道の海が、一カ所だけ盛り上がり、弾け、黒い巨体が轟音を上げながら躍り出た。
 軍艦のような頭を海上に出し、波を切る二頭の鯨。流れに身を任せ、潮を噴き上げながら、空になった肺に空気を送り込む。静かな海原に大河を渡るバッファローのように鼻を震わせながら、潮を噴く音だけが響き渡る。
 悠々と水を切るその鯨の背後に帆をはためかせ、忍び寄る影があった。ラマレラ村の銛打ち船だ。

 帆船は椰子の葉で編んだ帆をすばやく下ろすと、鯨の背後から、手漕ぎで追跡を始めた。全長一〇メートルの木造船が滑るように海上を走る。鯨との距離がみるみるうちに詰まっていく。船の中では櫂を漕ぐ褐色の逞しい肉体がリズミカルに躍動している。飛沫が跳ね上がり、それが海面に落ちる前に次の櫂が勢いよく海面に滑り込んでいく。
 船の舳先には獲物を狙うハンターのシルエットがあった。黒い人影は息を殺しながら銛竿/ざおを掲げ、タイミングを計っている。その竿の先には鎌ほどもある大きな銛が嵌っていた。
 鯨の行く手に回り込もうとする帆船。何も知らない鯨。双方がくの字形に一瞬交錯した。気合いの雄叫びを上げ、跳躍する銛打ち。無視するかのように超然と波濤を切る鯨。その尾ビレの付け根付近の動脈をめがけ、銛をしならせて銛打ちが襲いかかる。豹のように跳んだ男の影が巨影に呑まれる。と、一瞬間をおいて、鯨の姿が海中に消え、続いて四メートルはある黒い尾ビレが宙を舞った。はじき跳ばされるように海中に消える銛打ちの影。
 潜った鯨のあとを追うように銛綱がどんどん海中へ引き込まれていく。舳先で大蛇のようにとぐろを巻いていた銛綱がこまのように回転する。船の上は蜂の巣をつついたような騒ぎだ。懸命に銛綱をたぐり出すもの。次の銛を用意するもの。そして海中から船内に倒れ込むようにして戻る銛打ち。三〇メートルほどの銛綱の最後の一束が海中へ飛び込み、ピンと伸びきる。次の瞬間、船が大きくかしぎ、今度は猛烈なスピードで走り始めた。鯨に引かれ、銛打ち船が木の葉のように海上を舞っている。海水が怒涛のように船に流れ込む。船にしがみついて次の衝撃に備える男たち。
 私はその様子をファインダー越しに捉えながら、続けざまにシャッターを切っていた。
 遠ざかっていく鯨に遅れをとらないように、大声を張り上げる。自分を乗せた五メートルほどのオンボロエンジンボートが、うなりながらあとを追う。波に跳ね上げられるたびにボートは宙を跳び、ファインダーの中は海から空の景色に変わる。舳先に立ったまま撮影している私は何度もひっくり返っていた。そのたびに跳ね起きて、またカメラを構える。このチャンスを逃すわけにはいかない。もう四年もひたすらこの時を待っていたのだ。

 ファインダーの中で、もう一度鯨の尾が宙を舞った。銛打ち船が頭から波の中へ突っ込んでいく。巨大な哺乳類は全長一〇メートルの木造船を今にも海中に引き込もうとしていた。私は足下に転がった黄色いエアタンクに目をやる。いよいよその時が来ようとしていると思うと、武者震いがとまらない。
 思い出すまいとしても、深海から湧き出る大粒の泡が海面で弾けるように、これまでのさまざまな出来事が脳裏に蘇ってきた。感慨に浸っているひまはない。自分に言い聞かせながら、フォーカスリングを回す。心を落ち着かせようと、片膝をついて、BC(浮力調整具)にエアーを送る。しかし、ゲージのガラスに映り込むのは、気が遠くなるほど長い待ち時間に起こった出来事だ。フラッシュバックのように、それらが次々と現れては消える。
 鯨は海中で逃走を続けている。私は望遠レンズのついたカメラを置き、水中カメラに持ち換えた。いよいよ運命の瞬間が来た。

 マスクをつけ、BCをひったくると、大きく息を吸った。次の瞬間、闘いの喧噪と灼熱の陽射しが嘘のようにすっと消え、視界には海中のブルーが、そして耳には自らのあわただしい呼吸音だけがそれに取って代わった。突然、孤独な世界へと突き落とされていく。