まえがき 

◇後期ロマン派の時代は対立の時代である
 ワーグナー、ブラームス、ブルックナー、ドヴォルザーク、マーラー、リヒャルト・シュトラウス、フーゴー・ヴォルフ。後期ロマン派、すなわち十九世紀後半から二十世紀初頭を代表する大作曲家たちだ。これらの作曲家の演奏会は毎日世界中で開かれ、CDも大量に販売されている。私自身を含め、これらの作曲家の何人かをこよなく愛する人は、世界中に何十万人、何百万人もいるだろう。インターネット上にも、これらの作曲家の情報は氾濫している。間違いなく、これらの後期ロマン派の作曲家たちは、クラシック音楽のレパートリーの最重要の一角をなしている。
 もちろん、これらの作曲家にはそれぞれ個性がある。ひとまとめにすることはできないし、共通する傾向を取り出すのも難しい。曲想も異なれば、得意にした音楽ジャンルも異なる。音楽に向かう姿勢も異なる。これらの作曲家を後期ロマン派と分類するのも、単に彼らが十九世紀後半という時代に生きていたからに過ぎない。
 クラシック音楽に興味はあるが、どの作曲家をどのように聴けばよいのかわからないという人、あるいは後期ロマン派とよばれる作曲家たちの音楽を聴いて心惹かれたが、次に何に触れるべきか迷っている人は、この巨大な作曲家たちの厖大な作品を前にして、茫然としているのではないか。
 だが、この時代の枠組みを明確にし、これらの作曲家を整理する方法がただ一つあると私は考えている。そして、それを手がかりにすれば、時代をすっきりと理解でき、それぞれの作曲家の音楽のありように肉薄できると思うのだ。
 それは、ブラームス派対ワーグナー派の対立という視点を持つことだ。この視点を軸にすることによって、ある食品が酸性に属すかアルカリ性に属すかがわかるように、作曲家たちの特徴、音楽を色分けでき、一人ひとりの音楽性が浮き彫りになる。そして、当時の時代の音楽や思想の特徴までも明確になってくる。いや、当時だけでなく、ベートーヴェン、シューベルト、メンデルスゾーン、ベルリオーズ、リスト、シューマンといった古典派や前期ロマン派の作曲家たちや、新ウィーン楽派とよばれる二十世紀前半の作曲家たちも視野に入れて、一つの枠組みのもとにみることができる。
 もちろん、二つの派閥の中間に位置する音楽家もいる。揺れ動いていく音楽家もいる。だが、それを含めて、音楽家たちの位置が明確になってくる。

◇社会を巻き込んでの対立
 同時代に生きて、かたや生真面目で地味な音楽家、もう一方は時代の寵児として一世を風靡する派手な音楽家。そんな二人のライバル関係が、音楽の歴史の中でしばしばみられる。
 たとえば、バロック時代のヨハン・セバスチャン・バッハとヘンデルの二人がそうだった。同じような関係は、十九世紀末から二十世紀初頭にかけての、マーラーとリヒャルト・シュトラウス、スターリン時代のソ連におけるショスタコーヴィチとプロコフィエフの間にもみられる。
 だが、このようなライバルは、心の中では苦々しく思いながらも表面的には親交を結んでいたり、あるいは意識しているのは片方だけで、もう一方の存在は相手を歯牙にもかけていないこともある。二つの派に分かれて、それぞれが互いに激しく意識し、音楽の世界が二分されるようなことはなかった。
 ところが、十九世紀後半のブラームスとワーグナーの対立は、ほかの対立とは次元を異にする。
 ブラームスは、バッハやマーラーに輪をかけたような内気で生真面目な人間だった。一方のワーグナーは国王ルートヴィヒ二世を手玉にとって、バイエルン王国の財政を逼迫させるような巨大な存在だった。大向こうを唸らせるような大掛かりな歌劇・楽劇をたくさん作曲して、音楽を超えた巨大な存在だった。
 だが、この二人はそれぞれが個人的に対立しただけではなかった。ブラームス派とワーグナー派は真っ二つに分かれて、音楽の世界のみならず、社会をも巻き込んだ対立へと発展したのだった。これほどの対立が音楽の世界を二分したことは、それまでの歴史にも、その後の歴史にもないのではあるまいか。