はじめに 「できそこない」のためのブックガイド
生まれて初めての外国旅行なら、きっと誰でも、二十四時間、緊張している。
朝、シーツの中で目を覚ましても、ぼんやりと寝床の温もりを楽しんでいる余裕はない。すぐに頭の中で、その日これからの行動を予習し始める。訪れる場所、出会う人、起こるであろうあらゆることを想像するのだ。
そして、それぞれの場面で口にすべき現地の言葉を一生懸命に組み立てる。こんな言い方をしたら誤解される……うまく通じるだろうか……身振りはこうして……よし、これで準備は完璧だ!
そうしてやっとシーツをはねのけ、スリッパに足を突っ込み、まるで戦いに赴くような覚悟で一日を始めるのである。
ここは外国ではない、今は旅行中でもない。それなのにぼくは、毎日をそんな気持ちで過ごしている。
もの心ついたときから、いつどこにいてもそうだ。異質な時空間に投げ込まれたような訳のわからなさを感じ、頼りなく、不安と苛立ちに付きまとわれている。
なぜだろう、人々が何気なく当然のように行っていることが、ぼくには理解も実行もできないのだ。
誰もが熟知しているルールを、ぼくだけが知らずにいるのだろうか。みんなと同じことをみんなと同じようにしているつもりなのに、突然警笛が鳴り、鼻先にイエローカードを突きつけられる。そして、ぼくがひどい過ちを犯したと宣告される……。
だから常に緊張を強いられる。あたりまえの日常生活を送るだけなのに、慎重に身構えていなければならない。おい、気を抜くな、油断をしたら足を取られて転倒するぞ!
こんなにも無駄なエネルギーと時間を費やして、それでもなお、ぼくは間違える。今日も一日、失敗を重ねた。明日もきっと消耗していくだろう。
生きること、日々の生活を繰り返すこと、ただそれだけのことが、ぼくにはとてもつらい。
武器と仲間
いや、ぼくは特別なところなど何もない、ありふれた人間だ。ぼくが感じることなら、誰だって多かれ少なかれ同じように感じているはずだ。みんな、それでも耐え、あるいはくふうして、一日一日を乗り切っている。ぼくもがんばるしかない、みんなと同じように、持っているすべての力を傾けて。一生懸命、そうしているつもりだ。
それでもやっぱり、ときどき駄目になる。
あれほど慎重に準備した計画も進路も、ぼくの心の中の均衡も平穏も、ぼくの生、この世界、ぼくに関わる何もかもが破綻してしまう。
ぼくの頭の中で、そのとき静かに、惨めな確信が生まれる。
ぼくは人間の根本的なところが、できそこなっているのだ。
こんな「できそこない」は、いないほうがいい。
さあ早く消滅させてしまえ。
いや、ぼくは死にたくない。
何もかもおしまいにしようなんて望まない。
だからぼくは、「消滅へ誘う自分」と戦う。
「そいつ」を論破して追い払え。自分や他人や社会や世界について、どんなふうに見て、感じて、考えれば、ぼくはこれからも生きていけるのか、「そいつ」に言って聞かせろ。強い感情で圧倒してねじ伏せるんだ。鮮やかで絶対的な感覚によって、反対に、ぼくの生を肯定させてやろう。
絶対に負けない。
絶対に負けられない。
だいじょうぶだ、と自分に言い聞かせる。
この戦いに臨むとき、ぼくは素手ではない、強力な武器がある。
ぼくひとりではない、頼りになる仲間がいる。
武器と仲間。
それは、たとえば「本」だ。
本がなければ、ぼくは生き延びてこられなかった。
本は戦い方を教えてくれる。
戦うエネルギーを与えてくれる。
本はぼくの大事な武器であり、ともに戦い抜いてきた盟友である。
ぼくは本を、自分が生き延びる助けになるように読む。無能で不器用で余裕がないから、それしかできない。
だから、ぼくの読み方には強いバイアスがかかる。読みが浅い。あるいは反対に、どうでもいい細部に過剰な読み込みをする。ぼくの理解や解釈を聞けば、笑い出す人もいるに違いない。
けれども、「できそこない」のぼくに必要なのは、そんな読み方なのである。