フランス王統譜ここに始まる
【クロヴィス1世】
ゲルマン民族とローマ教会を結びつけ、パリを首都とする
誕生 466年 即位 481年(15歳) 死去 511年(45歳)

 シャンパーニュ地方ランスの大聖堂は、クロヴィス1世に始まる歴代フランス王の戴冠式が行われた場所である。オランダでは王宮も政府もハーグにあるが、戴冠式だけはアムステルダムで行われるように、実質的な首都でないところで戴冠式を行う国はけっこう多いのだ。
 モーツァルトの『戴冠式協奏曲』は、ドイツ西部フランクフルトで、ハプスブルク家のレオポルト2世が神聖ローマ皇帝となる祝典が行われたときに披露されたものだ。ロシアでは、18世紀にピョートル大帝がサンクトペテルブルクをロシア帝国の首都にしたが、戴冠式だけはモスクワのクレムリンで行われつづけた。日本もそれにならって、大正・昭和両天皇の即位礼は京都御所で行われた。
 いつもの行事とは違った場所で、帝王の治世に一度だけその町が脚光を浴びるのだから、お祭りとしての効果満点なのだが、それが国の始まりにまで遡る歴史を背負っているとなれば、ありがたみも格別であろう。
 クロヴィス1世は、即位から15年がたった496年に司教レミギウスの手で、3000人のゲルマン人たちとともにパリの北にあるソワソンで洗礼を受け、カトリック教徒になった。ゲルマン人の王としてはじめてローマ人の信仰を受け入れたわけで、これをもって、「中世ヨーロッパが始まった」あるいは「西ヨーロッパが誕生した」といわれる。
 クロヴィスの改宗のきっかけは、ライン川上流に割拠するアラマン人(フランス語でドイツを指す「アルマーニュ」の語源となった)と戦ったとき、王妃クロチルドが神に祈ったことで勝利を収めることができたのに感謝してのことだと、年代記『フランク人の歴史』を書いたトゥールの司教グレゴリウスは記している。だが、この改宗はかなり前からのクロヴィスと教会のやりとりの到達点というのが正しい。
 若き王者は、父の代にガリア北部の共同支配者だったローマ軍人アエギディウスの子であるシャグリウスを滅ぼしてロワール川以北を統一した。
 このころ、イベリア半島と南西フランスは西ゴート王国、イタリアは東ゴート王国、スイスとその周辺はブルグント王国という、キリスト教でも異端のアリウス派王国に支配されていたが、その領民のほとんどはカトリック教徒で、ローマ教会は網の目のような組織を築いていた。だが国王が異端教徒では、互いに邪魔しない以上の関係は存在し得なかった。
 ローマ教会がクロヴィスに期待したのは、共同してキリスト教国家を運営するパートナーとしての役割だった。彼らはクロヴィスに、改宗することがいかに有益であるかを説得した。
 王妃であるクロチルドは、ブルグント王国の王女だった。その母はカトリック教徒で、父はアリウス派だったがローマ教会にも好意的な王だった。両親は内紛で殺されていたが、彼女が聡明であると聞いたクロヴィス1世が求婚したのだ。