はじめに――市場経済だけで資本主義を語るエコノミストたちへ
萱野 まずはこの対談の趣旨を簡単に説明しておきましょう。
二〇〇八年のリーマン・ショック以降、サブプライムローン問題や金融危機の原因について、さまざまなことがいわれました。論者によって、今回の金融危機を一時的なバブル崩壊の問題として説明する人もいれば、資本主義の転換点という見方をする人もいます。
私と水野さんの立場は、どちらかといえば後者に近いでしょう。〇八年に起きた金融危機は、一過性の問題ではなく、近代資本主義システムが行き着くところまできたことを示す兆候なのではないか。そういった問題意識が私たちのあいだにはあります。
私は哲学や社会理論を専門にしており、これまでいくつかの著作で国家や暴力の問題について論じてきました。そこには、資本主義と国家の関係をどのように考えるべきか、という問題意識も込められています。そういった私の観点からすると、昨今の経済問題をめぐる議論には、「国家」というファクターがひじょうに希薄だったように感じています。
たとえば今回の金融危機では、アメリカの多くの金融機関に公的資金が注入されました。あれほど「国家は市場から撤退すべきだ」と主張していた金融機関も、いざというときには国家に頼らざるをえない。もし市場が単独で資本主義を形成しているのであれば、こうした公的資金の注入は必要なかったはずです。しかし実際には、金融市場の危機は国家によって肩代わりされ、その結果、いまのソブリン・リスク(国家財政に対する信用危機)にみられるように、もっと大きなシステムの危機へと拡大しつつある。そうした時代状況のなか、市場のことしか見えていない経済学者やエコノミストの議論はどこまで妥当性をもつのでしょうか。
エコノミストのなかでも、水野さんが提示されている議論はひじょうに特異です。『人々はなぜグローバル経済の本質を見誤るのか』などのご著書を拝読すると、水野さんは現在の資本主義の問題を、国家もふくめた大きな歴史的パースペクティブのもとでとらえていらっしゃる。
もちろんお互いの力点は違います。同じ資本主義システムに対して、私は国家論や暴力論の観点から理論的にアプローチするのに対して、水野さんは市場における実際の動きから出発して、それを大きな歴史分析へと広げていくというアプローチをとっています。
そこでこの対談では、お互いの論点を出し合いながらすり合わせていくことで、より重層的に資本主義というものを考察していきたいと思います。中心にくる問いは、資本主義とはそもそもどのようなものか、私たちは現在どのような歴史的状況にいるのか、資本主義経済はこれからどこへいくのか、そしてそのなかで日本経済はどういう方向にむかっていくべきか、といったものになるでしょう。
水野 私は、いま萱野さんがおっしゃったように、金融危機を経た現在の世界を、ちょうど中世封建制から近代資本制が誕生したときと同じような、大きな時代の転換点にあるものと考えています。
私は証券会社に入ってから、来る日も来る日もマクロ経済の分析をしてきました。さまざまなデータとにらめっこしながら、GDPや為替の予測、景気の見通しなどについてレポートを作成したり、金融機関やマスコミの質問に答えたりするのが私の仕事です。
そんななか、私は近代マクロ経済学の教科書を読んでも説明できないような現象にいくつも直面してきました。たとえば金利の問題です。すでに一〇年以上も日本の国債は超低金利の状態にありますが、当初は一九九七〜九八年に日本を襲った金融危機が去れば金利はまた上がるだとか、「質への逃避」によってたまたま国債利回りが低下しているだけだとかいわれていたのです。しかし九九年一月を底に景気が回復に転じても、さらに、二〇〇二年一月からの戦後最長の景気回復が実現しても、一向に金利が上がる気配はない。
デフレの問題も同様です。経済学の正統派を名乗るエコノミストや経済学者たちはこぞって、量的緩和をすればデフレから脱却できると主張しています。しかし、日銀が一〇年以上にわたって量的緩和をしているにもかかわらず、デフレは止まっていません。挙句の果てに彼らは日銀に「やる気」がないからだと強弁しはじめました。本来なら、正統派とされる経済学の見直しこそ必要なはずなんですが。
このように、既存の経済学や金融理論だけでは解決できない問題にいまの時代は直面しています。そこで私は、一見投資とは関係のない、歴史学者のフェルナン・ブローデルや世界システム論で知られるイマニュエル・ウォーラーステインなどの、歴史書や思想書を読みはじめたのです。
そうした読書のなかで私は萱野さんの『国家とはなにか』とも出会い、近代の資本主義システムをとらえなおすうえでたいへんな刺激を受けました。ですから私は、この対談をつうじてさらに認識を深めることができればと、ひじょうに期待しております。