序章 二一世紀の美術館とその建築的な展開


 建築が変わるとアートも変わる


 今思うと、金沢21世紀美術館はアートというものに対して、ある種の変化を期待する建物だったのかもしれません。この美術館は、空間構成として、各展示室が独立するように、離して配置されています。いわゆる伝統的な美術館、展示室が連続していく美術館とか、大きな部屋を仕切って使う展示空間とか、そういうものとは異なる美術館になっているのですが、そのような空間構成をもつことによって、建築側からの提案として、今までとはちょっと違う展覧会もありうるのではないか、ということを問いかけました。もちろん当時の自分たちは、アートに対してどうこういうというよりも、むしろキュレーターに対して問いかける、提案してみる、という意識のほうが強かったと思います。新しい展覧会のあり方や、企画のあり方を考えてほしい、こういう建物にすれば、展覧会のあり方も変わるのではないか、と。
 この美術館では、展示室がばらばらに離れて配置されているので、展示室から展示室に移動する間に、建物の庭や外の風景が見えたりして、白い展示室のニュートラルな空間とガラス越しに見える外の風景が混じりあったりします。移動空間が全体に張り巡らされているために、展示室に一定の順路がない、順番や序列がないことも大きな特徴です。当時僕がこの空間構成に合わせて、こういう展覧会があるといいなと考えていたのは、例えば歴史の展覧会のようなものでした。部屋が線的に繋がっていくタイプの美術館だと、歴史の展覧会は、線的な歴史を表現することになります。しかし金沢21世紀美術館のように、展示室が面的に広がっている美術館で歴史展を考えると、もっと面的な歴史というものを表現することができるようになるはずです。スタート地点も複数にすることができる。そういう意味でも、今までと違った美術館の使い方を、キュレーターやアーティスト、鑑賞者のみんなに期待する建築だと思います。
 ただ、最近感じるようになったのは、金沢21世紀美術館がアートに対して要求しているある種の変化は、そういった空間構成的なことももちろんあるのですが、それ以上に、あの建物にはある種の現代性というのでしょうか、新築の建築物の雰囲気、全部をゼロからつくった雰囲気というか、そういうものがあり、それがアートに対してなにか影響を与えるのではないか、ということです。それはもしかしたら、金沢21世紀美術館だけのことではなくて、現代において建設されたすべての現代美術館にいえることかもしれません。
 今の時代の現代美術館は、建築家の側からすると、建築とアート作品が同時にできてしまう時代の美術館だといえます。美術館とアートがほとんど同時につくられるのです。もちろん二〇〇四年の金沢21世紀美術館の竣工と、今年開催された企画展とでは数年の差がありますが、大きくみればほとんど同時といえます。アートが新品の美術館でつくられ、展示されるということ。これは、ウフィッツィ美術館やルーヴル美術館といった伝統的な美術館における作品と建築の関係とは、ずいぶん違うものです。
 現代のヨーロッパの建築家は、古い町という歴史的な遺産をもっていて、そこに自分が設計した建築をつくります。その現代建築はすごくラディカルなものだったりするわけですが、同時に古い町に対する信頼があります。町や周辺の建物の古さを信頼しているからこそ、新しいことをやれるわけです。それをコンテクスチュアリズム(文脈主義)と呼びます。例えばお隣さんの建物の高さがこれくらいなら、自分もそれに合わせる、もしくは敢えて変える、いずれにしてもまわりのコンテクスト(文脈)を頼りに建築を設計する。そういう考え方がコンテクスチュアリズムです。それは、コンテクストというものが明日も同じようにあると思えるからやれるわけです。つまり、自分の作品は今日生まれるものだけど、コンテクストは昔からあったし、これからもあり続ける。環境というものは未来永劫変わらないものだ、という認識です。これはヨーロッパの建築・都市において主流の考え方で、建築を設計するうえでの基本的な態度になってきました。
 ところが、東京で建築を設計するときの問題のひとつは、東京では建築の古さが信頼できない、ということです。古い建築は全部壊されていく運命にあるのです。それは、未来永劫変わらず建っているというような代物ではない。こちらが隣の建物に合わせて建物を新築すると、今度は隣のおじさんがこっちに合わせてつくりかえてしまったり、ということが平気で起きる。街並みというものが、どんどん変わっていくのです。だから東京では、ヨーロッパの町でありえたような、コンテクスチュアリズムは不可能です。東京で建築を考えるということは、ヨーロッパの町で考えることとは根本的に違ったものになるのです。環境がどんどん変わって、人間のライフスパン以上の短さで町の風景が変わっていってしまうということです。そこでは、西洋的なコンテクスチュアリズムが通用しない風景が生まれています。
 このことは、環境は変わるという、当たり前のことを改めて明らかにした、人々にわかりやすいかたちで示した、ともいえます。例えばローマ時代の都市づくりは、環境は変わらないという前提で町をつくってきたし、また建築家の感受性も、そのようにつくられてきたわけです。けれども現実には、建築をつくることによって環境は変わるし、都市をつくれば地球環境も変わる。つまり建築家にとっての環境は、今までのように依存できるものではないのではないか、ということになってきた。
 それに近いことが、アートの世界でも起きると思います。いくつかの先鋭的な現代美術は、古いクラシックな建築物で展示するときに、その先鋭性が鮮やかに感じられる。しかし、展示する美術館が同じくらい現代的で、軽いものである場合、アート作品が重厚な歴史的建造物の中で見たときとはずいぶん違って見えてしまう、ということが起きる。これからいろいろな地域で、今までと違う現代的な感覚の美術館がどんどんできていくでしょう。そのような現代美術館という新しいジャンルが世界的な規模で、ある群をなしていくと、アートの環境は今までとは違ったものになっていくと思います。