はじめに
英語を使いたいがなかなか出来ない、中学生の頃から何年もやってきたのに、という悩みを抱えているのが、正直に言えば、ふつうである。そうなるのはなぜだろう。英語の先生に相談すると、英語を聞いたり、辞書を引いたりして勉強や練習にはげみなさいとおっしゃる。しかし頑張らなくても身につく方法を考えてくれるのが先生というもののはずである。
一方他の国では、それほどでもない。彼らは日本人と比べて頑張って勉強しているわけではない。日本人が外国語の学習に膨大な時間と努力を費やしているのに、そのわりに外国語を実用に使えるようになっていない状況は、膨大な国民的損失である。やはり何かが悪いということなのではなかろうか。
ここでは発想を根本から変えて、現実を見ながら、英語の先生の固定観念にはとらわれないで、科学的に考え直してみよう。しかも楽しく。ただし「楽しく」ということは、テレビの語学番組によくあるように、遊びながら、観光旅行のような題材で、大して内容のない事柄をドタバタでという意味ではない。言葉というものの性格を理解し、知的好奇心を多面的に満たしながら、という意味である。
この書で述べたいことの趣旨は、おおよそ次のことである。
・言葉は音で伝わるのではなくて、意味と内容で伝わる。
・だから大切なのは発音よりも語彙と論理構成である。
・外国語の造語法を知れば、語彙は芋づる式に増える。
・それは、努力せずに外国語を実用に使えるようになる近道である。
これまでの外国語修得法で反省すべきことは、学校で習っているやりかたが効果的とは限らないことである。それでも、英語のほうがましかもしれない。話は変わるようだが、算数や数学は英語よりも長期間にわたって学校で習っているのに、定量的関係や数理言語を使いこなせないというのがふつうである。英語はそれほどでもない。まずは自信を持とう。
私は定年退職になるまで宇宙の物理学を職としてきたから、数学や英語は「使うもの」だと思っている。2度目の退職前、最後の10年間は放送大学に勤めて、20歳代から80歳代までの人と付き合った。そこでの最大の問題は、英語や数学が使えないということであった。放送大学では外国語が必須になっていて、なかなか卒業出来ない人まで出たのである。
そこで私は「使える数理リテラシー」という講義とその教科書(『使える数理リテラシー』2003年、放送大学教育振興会刊。改訂新版は2009年に勁草書房より刊行)を作って、まずは数学のほうから何とかしようと思った。その科目は、数学の先生からは「数学の精神と体系にマッチしない」として評価されなかったが、数理を使う人からは一定の評価をいただいた。同じことを英語で出来ないかというのが、当時から持っていた私の希望である。もちろん英語の先生がたに相談したが、乗ってもらえなかった。上に述べた数学の先生との考えの違いと同じようなことが、その根本にあると思っている。
それならどうするか。まずは、いわゆる「英語の教えかた」というものから離れて、現実を直視することである。
注目点はいろいろある。世界では発音のかなりおかしい英語が堂々と通用している。文法的におかしいものであったり、綴りが間違ったりしていても通用している。英語の先生は辞書を引けと言うが、私たちが日本語を身につける過程ではほとんど辞書は引いていない(あなたが英語の辞書で引いた単語の数は、日本語を調べた単語の数の何倍ですか。10倍、それとも100倍、もっと?)。単語帳で英単語をその日本語訳に対応づけて「覚える」という努力は、本当に役立っていますか。学校では英語を翻訳させるが、話し手は翻訳に要する時間を待ってくれますか。英語の語彙が増えないのは、英語の造語機能(概念を構成・変形・拡張していく性質とその方法)を教えていないので、語彙が芋づる式に増えていかないからではありませんか。言語の扱いと認識に関して、脳科学の考えかたが取り入れられていないのではありませんか。
伝統的指導方法が生徒や学生の足を引っ張っている典型的な例は物理学である。そして物理嫌いを生産している。昔の偉い学者先生が、物理学はこういうふうに教科書を作り、組み立てていくものだという(物理学者を志望するものには)良い例を示したが、今でも一般向けの教科書がそれに引きずられている。英語や他の外国語の場合は、物理学の場合ほどには悪くない。
それでもやはり何かがピンボケである。その何よりの証拠は、努力のわりに身についていないことである。最大の罪は、英語の先生が英語は怖いと思わせるところにある。自動車の運転でも、怖いと思っている人はなかなか身につかず、反射神経で運転出来るようにならない。
自動車の運転は事故を起こすことがあるから、本当は怖い。それに対し英語は契約文書にサインするとき以外は間違えても怖くないし、車の事故と違ってやり直しもきく。そこで英語は怖くないと思い直して、日本語を身につけたときのように、いつの間にか身につくようにしたいものである。この書で述べることがそのための足しになれば幸いである。
なお、同じ言葉の説明が、一部、繰り返し現れることもある。ただしそれは異なる視点や文脈で、異なる意味での説明のつもりなので、許していただきたい。