ぼくは二〇〇九年、『世界遺産 神々の眠る「熊野」を歩く』(集英社)、『熊野 神と仏』(原書房、共著)という二冊の本を書いて、日本では「信じること」がどのようにして今日の形になったのかという問題について論じたところである。もちろん、ここでいう「信じること」とはそのまま「宗教」とか「信仰」だけを意味していない。しかし、「何も信じないではいられない」とわかってはいるものの、いまさら特定の宗派や教義に依存するというわけにもいかない、というのが多くの人の実感ではないか。そうなると、われわれの合理的な判断を水面下で支えている規範的なものについてどう考えたらいいのだろうか。

 生きていくうえであなたの身に起こることはけっして順調なことばかりではない。たとえば、身体がだるかったり、歯が痛くなったり、頭痛がしたり、アレルギーに悩まされたりする。目が悪くなってメガネかコンタクトをしなければならなくなる。事故に巻き込まれて遅刻し、大事な取引をのがしたり、好きな人とちょっとしたことでトラブルになり、ずっと心痛の種になったりすることもある。買ったばかりのパソコンが不調で思いどおりにならなかったり、保存しておいたデータが全部消失してしまったりすることもある。

 こうして列挙していくと、われわれの人生は、気にするときりがないような小さなトラブルの連続だということがわかる。何もトラブルを抱えていない人間などこの世には存在しないのだ。大好きなテニスをすれば、アキレス腱を痛めるようなアクシデントも起こる。すてきな相手と恋に落ちれば、いつか別れを迎えて悲しみに暮れるような日々も来ることだろう。しかし、よく考えてみよう。もしあなたにいかなる災難もふりかかってこなかったとしたら、それこそ幸せな人生といえるのだろうか。そんなふうにして平々凡々に人生を全うすることがあなたの望みなのだろうか。

 あなたは自分の身にいいことが起これば大喜びし、悪いことが起これば運命を呪うことだろう。しかし、よく考えてみると、われわれが生きる意味を知るのは我が身にふりかかった災難によってではなかったか。もしそれが起こらなかったら、あなたの人生はさぞや空々しいものになったのではなかろうか。よく「災い転じて福となす」というが、災いがなければ福もない。むしろ、ふりかかった災難こそ人生が変わるきっかけだということを深く認識する必要があるのではないか。

 死に方がわからなければ生き方もわからない。そして、生き方がわからなければ死に方もわからない。ここでは、この列島で数千年にわたって長く信じられてきた「死ぬことを最大の幸福と見なす生き方」を基調低音として読みすすめていただきながら、なにより、われわれの生活を豊かにする「生きるチカラ」はどこからやってくるのか、みなさんと一緒に考えていきたいと思っている。